1-1 ~幸せな日々~
静かな空間にページを捲る音やペンを走らせる音だけが止むことなく響いている。たまに聞こえてくる足音や机を叩く音、ヒソヒソとした話し声が集中するのを邪魔するが、怒られるのは嫌なのでペンを走らせる。
先生は教卓を使って何かの書類をまとめているようだ。たまに教室内を歩き回って、生徒の様子を見る。話し声は僅かに止み、居眠りをしている生徒は叩き起されていた。
俺は最後の問題に目を通し、答えを書き込んだ。ペンを置こうとして、自分の名前を書いていないことに気がついた。金森 陵、と乱雑に書き込み、ペンを筆箱にしまう。
「あと5分ぐらいで授業が終わりますが、残った問題は宿題となりますので明日の放課後までに提出してください」
時計を確認した先生が表情を変えずに言った。
多くの生徒が不満そうに抗議している……自分はやっていて良かった……今日は別の科目からも宿題が出ていたので、やっていない生徒は大変だろう。
問題は難しくないが、数だけはバカみたいに多いプリントを先生に提出する。
別に成績が優秀なわけでもないし、態度が良いという訳でもない。自分は普通の生徒だと思うが、人と違う所が一つだけあった。それは長所というわけでもなく、短所だと切り捨てられるものでもなかった。だが、他の人とは決定的に違っている。
『陵! 聞こえるか?』
頭に響く誰かの声……授業中でもあり、教室内に話しかけてきた人はいない。そんなことは確認しなくても分かる。
普通ならば驚いて叫んだりもするのだろうが、自分は10年以上前から普通ではない。
(集中しているときには話しかけるなよ! 何度言ったら分かるんだ? しかも、ここ学校だぞ。うっかり言葉に出したら大変なことになるだろ!)
自分は現実世界とは違う……自分の精神世界らしい場所で誰かと喋っている。この誰かは自分と同じ十五歳ぐらいらしいのだが、性格や口調にかなりの差が見られる。本当はかなり年上なのではないだろうか、と密かに思っているが……もしかしたら筒抜けなのかもしれない。
この誰かの名前は、この誰か自身も分からないらしく、適当に名前をつけた。一緒に考えて完成した名前がダルクだ。この名前もちゃんと意味を考えて作った名前だ。
そして、この声が初めて聞こえたのは、記憶を失うことになった事故の翌日だった。俺が5歳の時に行方不明になったらしく、数日で見つかったらしいが、気付いたときには記憶喪失。気を失っている間に運ばれた病院で説明を受けている最中に、自分と同じく過去の記憶がない男の声が聞こえた。記憶を無くし、やる気を失っていた俺を助けてくれた。
その声のことを両親に伝えたら、事故の衝撃で少し混乱しているだけだと言われた。自分のことは忘れていたけど、一般常識だけは覚えていた俺も、きっと自分がおかしいんだろう、と考えるようにしていた。たとえ、その声が自分を支えてくれていたとしても。
だけど、その声は歳を重ねるごとにハッキリと聞こえるようになった。
中学生に入学した頃には多くの知識を手に入れて、これが二重人格というものではないかと考えるようになった。事故のときに忘れたいような何かがあったのかもしれない。
だけど……ただの二重人格ではない気がする。
『それは、すまない……だが、少し気になることがあったのだ……』
戸惑いと不安を含んだ声が響く。いつもとは様子が違う。いつもは偉そうに自信たっぷりな口調で話しかけてくるのに……表情を窺い知ることは出来ないが、想像するのは難しくないような気がした。
(なに? 今は授業中だから短く説明してほしいんだけど)
『どうして俺は表に出られないのだろうな……』
寂しげに呟かれた一言が陵の頭の中で何度も再生される。
そう……皆が知っている二重人格と違うところがこれだ。ダルクが表側に出てきて行動したことは今までに一度もない。俺たちは会話をすることは出来るが、勝手に記憶が流れ込んでくるようなことは無い。見たい、と願えば互いの考えを覗き見できるらしいが、俺はしたことがない。表に出れないダルクには、何かが起こって入れ替わるようになった時に備えて、学校に行ってる間の記憶は見るように言ってあるが……無駄なのかもしれない。
ダルクが今までに弱気な発言をしたことは無かったが、気になってはいた。
表に出てくることのない裏側の存在……闇の中に隠された存在……ダルクの名前は英語で闇を表すdarkからとったものだった。かなり安直な名前だったが、その時は調子に乗って何度も名前を呼んだ気がする。ダルクも喜んでいた。だけど、今はこんな名前を付けたことを後悔していた。
こんな名前をつけたから、表に出てこれない訳ではないはずだし、別の名前にするのも気持ち悪いものがある。
(分からない。俺だってお前を表に出してやりたいさ……だけど、どれだけ考えても方法が見つからないんだ)
いっそのこと、精神科にでも通おうかと考えたこともあったが、それで本当に解決するという保証は無いし、両親も止めるだろう。どうしてかは分からないけど、両親は頑なにダルクの存在を否定する。俺が嘘をついている、とさえも思っているようだ。
生まれたときからの記憶がないせいで、元々はどちらが表だったのかは分からない。両親が何も言わないから、俺が表だったんだろうけど。たまにダルクの真似をして喋ったら、無理に難しい言葉なんか使わなくてもいい、って言われたこともあったし。
『……俺は誰なんだろうな…………』
(お前はダルクだよ! 母さんや父さんが否定したからって、ダルクが消える必要は無いから、元気出してよ!!)
精神世界にしか存在できないダルクにしか分からないこともあるんだろう。俺には分からないこともあるんだろう。それでも、俺はダルクが消えたら悲しいし、絶対に嫌だ。
そうなるくらいなら、自分が消えた方がいい。
『分かっている……それに、そんなことでは無いんだ。父や母など、どうでもいい。だから、お前が消えるなどとは二度と言うな!』
感情を読み取られていたようだ。それにしても、そんなことじゃない、とはどういうことだろうか。存在が知られていないから消えたい、じゃなくて……それなら、何が原因なんだ?
『後で話そう……授業中なのだろう?』
最初に話しかけてきたのはダルクの方だよ、と伝えようとしてやめた。どうせ、読まれているんだろう。それに、予想以上に深刻そうなダルクの声に驚く。
そのまま通信が切れるように、静かになった精神世界から感覚を逸らして、ダルクについて考えてみる。
陵にとってダルクは家族以上の存在であり、ダルクにとっても陵は家族以上に大切な存在だと言っていた。
ダルクについては知らないが、記憶に無い両親よりも、過去に居ただろう誰かよりも、ダルクさえ居ればそれでいいような感覚さえあった。
金森 陵を知る者はダルク以外にもいるが、ダルク(・・・)を知るものは俺一人しかいない。最初は、それが辛いのかもしれないと思っていたが、それも違うのか。
どうにかしてあげたいが、そう思ったところで何も出来ないことに変わりはない。自分が無力であることを悔しく思う。できるなら、ダルクと俺の存在が入れ替わってしまえばいいのに。
記憶が戻れば、何かが変わるのだろうか。はぐらかされてしまうかもしれないけど、両親に訊いてみよう。ダルクのことじゃなくて、俺の過去のことを訊くんだから、特に問題もないだろうしな。
様々なことを考えているうちにチャイムが鳴り授業が終わった。授業の終わりと共に複数の生徒が散らばったり、集まったりしている。
その中で、1人の生徒がこちらに近付いてきた。それに気付いて、別の生徒もこちらに来る。この2人はいつも一緒に居るイメージがあったから、特におかしいことではなかった。
「陵! さっきの授業、解き終わった後で別なこと考えてただろ? しかも、かなり深刻そうだったぞ? もしかして好きな人でもできたのか?」
少し赤みがかった短い髪の佐藤 渉が最初に話しかけてきた。少し調子に乗りやすく、かなりのお喋りだが、周囲からの評価は高めだ。広く浅く交友関係を作っているような気がするが、本人の知らない所で意外と深くなっているらしい。
このまえ、渉の友達が僻んでいたのを聞いたから、たぶん間違いないと思う。
「そんなはずないだろ……お前じゃあるまいし。知り合いのことでちょっとなー……そんなことより、なんで深刻だって分かったの?」
こういうことに気が付いて、渉なりに心配してくれるから好かれるんだろうな。俺からしたら鬱陶しいんだけどな。
「お前は最後まで頑張るだろうから、ペンが止まったら解き終わったってことだろ? 宿題にならなかったはずなのに、嬉しそうな顔するどころか、めちゃくちゃ暗い顔してた!」
ダルクのこともあるから、あんまり顔に出さないように練習したつもりだったのに……顔に出やすいのか?
それにしても、渉の席は斜め前の方だから、見ようと思えば見れるだろうけど、わざわざ後ろ向いたのか?
「授業中に何見てるんだよ。そんなに暇だったのか? ってことは問題全部解けたんだろうな?」
嫌味も込めて言ってやると、渉は特に気にした様子もなく笑った。
「解けるわけないじゃん。赤点ギリギリの俺が! まぁ、雷は余裕だったっぽいけど」
渉が今まで黙っていた中矢 雷を指差した。どうしてかは分からないが、伸ばした黒髪で目元を覆い、前が見えているのか怪しい状態だ。最初に会った時からそうなので慣れてしまったが、影が薄い訳では無いのだが、いろんな場所から突然現れ、周囲を驚かしている。
雷は大人しく落ち着いていて、どうして渉と一緒にいるのかが不思議なくらいだ。渉みたいな人は苦手そうだけど、雷が渉以外の生徒と一緒に居る所は見たことがない。
小学校から彼らと一緒にいる人からは、何か深い事情がありそうだけど、聞くと怒られるから止めたほうが良い、と忠告された。家庭の事情が複雑らしい、と言われてしまえば、俺自身も複雑な境遇にあるため、聞くのをかなり躊躇してしまう。だから、お互いに友達であるものの、家庭のことは全く聞かないし、家に遊びに行ったりはしない。
高校に入ってからの付き合いなので、当然ながら2人とも表である自分だけを知っている……本当のことを打ち明けたら、この2人ぐらいなら信じてくれないかな。たぶん無理だろうな。渉は冗談だと思うだろうし、雷に相談したらしたで、難しい話を延々と聞かされそうだ。
雷は机に腕をかけて座り込んで、まるで眠っているかのように、腕を枕にした状態で目を瞑っているが、話は聞いていたようで返事をした。
「……普通だよ…………渉も、本当は……頭良い、よね?」
話し方も眠たそうだが、もしかしなくても勉強のし過ぎで寝不足だろうか。雷は特別に天才という訳ではないが、自身の進みたい分野に関しては山のように膨大な知識がある。
その代わり、興味のない分野はまるで駄目だが。あと運動も駄目だ。あの先生が病人扱いするほどだから、周囲から病人だと誤解されている。本人は健康体なのに。
それと正反対なのが渉だ。たくさんの分野を進んで知ろうとする……が、長続きしない。中学までは勉強も楽しんでいたらしいが、今では既にこれだ。運動も出来る癖に、つまらないから、という理由で手を抜いている。飽きるまでは全力でやる、という言葉に従って、1、2ヶ月ごとに部活を転々としていた頃もあったらしい。それに付き添わされて、マネージャーをさせられた雷が可哀想だ。
「授業なんて全く聞いてないからな。授業中は暇でしょうがない。そうだな……俺を勉強させたいんだったら、もっと楽しい授業してくれないとな」
聞いてるだけの授業はつまらないらしい。かと言って実験や総合学習は面倒だときている。それでも赤点を回避できてるのは流石としか言いようがない。
雷も長いため息を吐きながら、視線を俺に向けた。
「……だから成績が落ちるんだよ……陵からも、何か、言ってあげて……」
「ん? そうだな……授業は真面目に受けろよ」
正直に言うと、高校からの渉しか知らないので、勉強している姿が想像できない。
「なんだよ、ニ人して……まあ、別に言われたからって勉強なんてしないけどな!」
渉が不機嫌そうな顔をした後で、すぐに明るい顔になる。
能天気な考え方をしている渉に、雷が説教を続ける。だが、渉はそれを軽くかわして違う話題を持ち出してきた。
「もういいだろ、勉強のことは……それよりも、知ってるか? 最近の神隠し騒ぎ!」
「……失踪事件、だけど…………神隠しなんて、信じてるの?」
渉の面白半分の発言を雷が訂正する。雷はオカルト系の超常現象の類を信じていない。
どこから拾ってきた情報かは知らないけど、なんか楽しそうに話しているところを見ると、今の渉の興味はオカルトに向かっているようだ。すぐに飽きるとは思うが、最初の方は嫌になるくらい長く話に付き合わされるから面倒なんだよな。
「失踪よりも神隠しの方が面白いだろ。この近くでも何人か消えてるらしいな」
この近くで失踪事件なんてあったのか。時間帯が悪いのか、俺が見たニュースに失踪なんて言葉は見当たらなかった。
それにしても、人が消えてるのに面白いの一言ですませるのか。近くで、という言葉が無ければ、俺も深く考えずに面白がったかもしれないけど。
「なぁ、俺詳しく知らないんだけど、そんな事件があるの?」
それを伝えると、渉と雷が驚いたような顔をした。
「ホントに知らないのか? ほら、先週だよ! 隣町で中学生失踪。家出か誘拐か……それとも、例の神隠しか……ってニュース見てないか?」
見てないものは仕方ないと思うんだけど、家出の可能性もあるじゃないか。それに普通の失踪と変わらないような気がする。なんで神隠しなんて騒がれているんだ?
「……それだけ、じゃない…………1年、に2、3人、くらい……消えてる」
「そうそう! しかも目撃情報あり! 突然消えたんだってよ、何かに吸い込まれたみたいにな! だから神隠しだって、ネットでもテレビでも大騒ぎ!!」
渉が偉そうに説明しているけど、隣で雷が難しい顔してるんだけど。いつもみたいに、後で説教でもされるんじゃないか。
「……最初の、失踪も、日本人…………11年前、小学生女子……確か、栗原って子」
聞いたことはないが、その後の説明で、俺たちと同じ高校2年生だということが分かった。11年前といえば、6歳ぐらいか。小さい子どもが狙われてるのかもしれないな。
「大人は消えないのか? 目撃証言以外にも何かあるの?」
「おっと、陵も興味持ったか!? よし、教えてやるよ。大人も消えてる。えっと、子どもが20人くらいで……大人が、10ぐらい? 家出にしては、部屋から持ち出されたものも、理由も特にない。1度だけ、4人ぐらいまとめて消えた時があるんだけど、一緒に集まってカラオケに行ってたらしい。その個室で消えたらしいんだよ。その部屋の監視カメラは役立たずになってたらしいんだけど、入口を通った様子もなくて、裏口も異常なし……まさに神隠し!!」
かなり大きな事件じゃないか。それは皆が騒いでも不思議じゃない。子どもが消えてるんだったら、両親が教えてくれてもおかしくないのに。特に母さんは家に居る時間が長いから、知っててもおかしくないんだけどな。
「……なんで、知ってるの? そこまで、テレビは、言ってない…………どこで?」
「ネットだよ そのカラオケ店の店長は口止めされてたんだけど、従業員がうっかり口を滑らしたんだよ。ネットだから、って言うのもあったと思うけどな……無事かな?」
特定されてなければ無事だと思うけど。消えたとしても、神隠しの一つとして処理されそうだけどな。
雷が何かを言いたそうに口を開きかけたが、チャイムの音にかき消された。皆が、それぞれの席につく。次の授業の準備をしようと、二人も席に戻る。
「気をつけろよ……次はお前かもしれないな」
渉が縁起でもないことを言った。雷が咎めるように睨みつけるが、効果はないようだ。
冗談のつもりで言ったのか、本心から言ったのか……なぜかは知らないけど、俺は渉が好きではない。かと言って嫌いでもない。俺は友達でいたいのだが、よく分からない。
それは渉が俺を嫌っているからかもしれない。
どうして話しかけてきたのかは分からないし、何がしたいのかも分からないけど、俺は気付いてないフリをする。最初に気付いたのは、俺じゃなくてダルクだけど。
記憶を読んだダルクが教えてくれた。ダルク曰く、近付きたくもない、らしい。だけど、俺は渉を良い奴だと思ってる。
そういった意味で、俺は渉を気に入ってるし、居なくなれ、と思っている。ダルクと俺の考えは一致する時もあれば、極端に異なることもある。だいたいは足して2で割れば丁度、ぐらいなのだが、渉に関しては足して2で割っても嫌いの方が強そうだ。
ダルクが分離した理由に関係があるのかもしれないが、二人の記憶が無い現状では、どうしようもない。記憶を無くした後に引っ越したらしいから、直接の関係は無いと思うんだけどなぁ。
先生が教室に入ってくる。いつも通りの授業だった。
毎日が同じように過ぎていく。今までも……これからも……それが、少しだけ寂しい。 だから望んでしまう。この日常が綺麗に壊れていくのを。