学歴よりも大切なもの
僕は、東京に住む18歳。
小学校から有名私立校に入学し、親に常にプレッシャーをかけられながらも、今まで誰よりも一生懸命に勉強し、結果を出してきた。
そして、今年の春、僕は親の薦めで東京大学を受験した。
絶対に受かる、そう信じて。
しかし、結果は不合格。
高校3年間、東大合格のために生活の全てを捧げてきた僕は、結果を知った瞬間、その場に崩折れた。
「お前には、失望したよ」
父の言葉が、さらに僕をどこまでも続く闇のそこへと突き放す。
僕は両親に見捨てられたんだ。
そう思えて仕方なかった。
4月になった。
今日から滑り止めとして受けた三流大学に通わなければならない。
結果発表から今日まで、とても長く重苦しい時を過ごした。
家族の会話は無くなり、両親から出るのは溜め息ばかり。
今日の朝に関しては、母は玄関に見送りにすら来てくれなかった。
学校へ行きたくない、そう思ったのは、生まれて初めてだった。
学校は、駅から歩いて5分というなかなか交通の便の良いところにあった。
滑り止めの大学の良いところなど、それくらいしか見つからない。
一人虚しい気持ちを抱えながらキャンパス内入ると、各サークルが新入生をメンバーに引き入れようと、宣伝活動を行っていた。
僕は高校まで、一度も部活動に所属した事がない。
そんなものをやったところで、人生のキャリアに何のプラスもないからだ。
現代社会で生きていくのに必要なものは、「学歴」、ただそれだけである。
しかし、今僕がいるのは、三流大学のキャンパス。
今まで積み重ねてきた輝かしい学歴が、嘘のように思える。
果たして僕はこれから4年間、ここで何をすべきなのだろうか。
それすらもわからない。
入学式終了後、僕はキャンパス内を重い足取りでノロノロと周った。
三流とはいえ、大学は高校とは比べ物にならないほど、設備が充実していた。
ここが東京大学だったら……。
そんな事を何度も思った。
相変わらず、キャンパス内はざわついていた。
僕はできるだけそれらを避けるようにして歩いた。
正門の反対側まで来ると、さすがに人がほとんどいなくなった。
僕は一度溜め息をついて、空を見上げた。
とても澄んだ青い空を、白いウールのような雲が風に乗って流れて行く。
家に帰りたくない、そんな気持ちが湧き上がってきた。
そのとき、どこからともなく陽気で明るい音楽が聴こえてきた。
管楽器の音だということは、素人の僕にもわかった。
音量的に、そう遠くはない。
僕は引き寄せられるように、音のする方へ歩を進めてた。
すると、三方を建物に囲まれ、真ん中に青々とした力強い木が立っているその下で、7人ほどの学生が、それぞれの楽器を楽しげに吹いていた。
男が四人に女が三人だ。
僕は無意識のうちに、それにジーッと見入っていた。
そんな僕に一人の女の奏者が気付いた。
僕は目が合った瞬間、どうしたら良いか分からず、とっさに目をそらしてしまった。
すると、他の人達も僕の存在に気づき、7人の視線が僕に集中した。
一瞬の静寂の後、リーダーと思しき眼鏡をかけた優しげな男が、僕のほうへ歩み寄ってきた。
「君、新入生?」
「あっ、はい」
久々の温かい声に、僕は一瞬動揺した。
「君も音楽が好きなのかい?」
皆の視線が集中するので、僕は少し緊張する。
「い、いえ、音楽が聴こえてきたのでちょっと来てみただけです」
遠くから僅かに聞こえるざわつきの中に消えていく自分の声が、とても冷たく感じられた。
しかし、リーダーらしき男は、温かい表情を全く変えない。
「へぇー、やっぱり君、音楽が好きなんだ。どうだい?君も一緒に演奏してみないかい?」
予期せぬ言葉に、僕は一瞬返答に詰まった。
「ほら、早く」
僕は腕を掴まれ、他の六人がいる木の下に引っ張られるようにして行った。
「楽器をやった経験はあるかい?」
他の六人のメンバーも、目を輝かせながら僕の方を見ている。
「いえ、全くありません」
少し申し訳なく思いながらも、僕はキッパリと答えた。
「そうか……それじゃ今メンバーが欠けてるクラリネットをやってもらっても良いかな?」
「でも、できるかどうか……」
僕はこのままメンバーとして引き入れられてしまうのではないかと心配なってきた。
「大丈夫。西川さん、ちょっと教えてあげて」
すると、先ほど僕に最初に気がついた女の人が、クラリネットを僕に差し出した。
僕は恐る恐るそれを受け取った。
「それじゃぁ、ちょっとだけ」
ここまで来たらしょうがない。
少しでも吹いていくしかなさそうだ。
楽器など触れた事すらない僕にとって、それを持っているだけでも緊張してしまう。
「彼女は今はフルートをやっているが、高校まではクラリネットをやっていたんだよ。それは去年の4年生の先輩が、今年の新入生のために置いていったものなんだよ」
いよいよ話が入会に向かい始めた。
でも、とても立ち去れる状況ではない。
仕方なく僕は彼女の指導を受けた。
やってみるとかなり難しい。
まず音が出るまで時間がかかった。
しかも雑音というか気が抜けたというか、とにかく間抜けな音だ。
その後は指づかいだ。
音階を吹くだけでも、指が絡まりそうになる。
これを楽々と楽しげに吹いているこの人達は、とてもすごい人なんだなと思わずにはいられなかった。
僕はヘタクソながらも、時間も忘れて夢中で吹き続けた。
そのうちに、何時の間にか空が紅く染まり始めていた。
僕がかじりつくように吹いているのを見て、
「どうだい?とても小さなサークルだけど、この吹奏楽アンサンブルサークルに入らないかい?」
「はい」
反射的にハッキリと答えた自分に、僕自信も驚いた。
「そうか。僕らは君を心から歓迎するよ。音楽の楽しさを知っている人は、皆仲間なんだ。経験や技術は、これから磨いていけばいいから、一緒に楽しくやっていこう」
「よろしくお願いします」
こうして僕は、クラリネット奏者として吹奏楽アンサンブルサークルのメンバーとなった。
それから半年、僕は毎日サークルの仲間たちと共に、毎日日が暮れるまで練習に励んだ。
10月に大学内で演奏会が行われる事が決まってからは、休日も一日中吹きつづけた。
そんな音楽漬けの毎日を送っていた僕に、ある日父がこう言った。
「お前、大学は楽しいか?」
僕は一瞬ためらってから、
「楽しい」
と父の目をじっと睨むようにして言った。
滑り止めの大学が楽しいなどと、あまり父に自信を持って言える事ではなかったが、自分の今の気持ちを正直に答えた。
「そうか」
父は静かに呟くと、そそくさと立ち去っていった。
僕は今までに、自分の事について質問をしてきた父を見た事がなかったので、少し不思議な気持ちになった。
演奏会前日、僕は日がどっぷり暮れるまで練習をした。
今ではそれなりに吹けるようになり、人に聴かせても恥ずかしくない程度の演奏はできるようになった。
上手くなればなるほど、音楽は楽しい。
そんなリーダーの言葉を、最近つくづく感じるようになった。
そんな事を考えてながら帰宅し、自室に入ると、机の上に見慣れない包みが置いてあった。
「なんだろう?」
そう思って包みを開けると、中には新しいクラリネットが入っていた。
それと共に、カードが同封されていた。
興奮を抑えつつ、カードを読む。
『東大の試験に落ちた時、正直父としてどんな言葉をかけて良いのかわからず、つい心にもない事を言ってしまったこと、大変申し訳なく思っている。母さんも、落ちこんでいるお前にどう接したらいいのかわからなかっただけで、決してお前が嫌いだからじゃないんだ。どうかわかって欲しい。やりたい事をやって、生き生きとしているお前を見ていると、父としてとても嬉しい。私にできる事はこんな事しかないが、お前は一生懸命演奏して来い 父より』
読み終えたとき、僕の目から涙がこぼれ落ちていた。
両親は僕のことを見捨ててはいなかった、いつも自分の事を考えていていてくれたのだと思うと、涙が止まらなかった。
両親の為にも、絶対に良い演奏をすると心に誓い、僕は眠りについた。
翌日、僕は新しい楽器でステージに立った。
観客は決して多くはない。
しかし僕達は、いつも通り、あるいはいつも以上に音楽を楽しんだ。
演奏も終盤に差し掛かった時、観客の後ろのほうに、一瞬両親の姿を見たような気がした。
演奏しながらもう一度目を凝らしてみたが、そこに両親の姿を見出す事はできなかった。
演奏会は大成功を収めた。
人前で演奏することは、普段練習で演奏するのとは、演奏後の爽快感や充実感が全く違う。
演奏会の後片付けが終わった後、皆でいつもの練習場所で祝杯をあげた。
もちろん未成年者ジュースで。
そのとき、この仲間たちと演奏できた事を心から嬉しく思った。
そして、自分が半年間で、大きく成長した事に気が付いた。
僕はこの大学で音楽と出会い、仲間たちと出会った。
今までの、親に言われた道を進むのではなく、自分がやりたいと思った道を進み、とことんやったこの半年間は、本当に充実していた。
この経験は、僕の人生にとって、とても大きなものになるだろう。
そう確信した。
「あれから10年になるのか」
思い出すたびに、僕は鮮明にその時の記憶が蘇ってくる。
僕は今、オーケストラのプロのクラリネット奏者として活動している。
決して給料は高くないが、自分の好きな事を仕事にする事ができて、とても満足している。
高校時代の同級生が、有名企業の幹部に次々と昇進していくのを見ても、あまり羨ましいとは思わない。
この世の中には、地位や名誉、お金なんかよりも、もっと大切なものがあると思う。
それを、僕は大学で学んだ。
そして、僕の傍らには、クラリネットを教えてくれた彼女が、今では永遠を誓った人生のパートナーとしている。
音楽、それは僕にとって、人生の全てとなったのだ。
勢いで書いた作品ですが、読んでいただきありがとうございました。
感想を頂けたらうれしいです。