「欲しがりな妹」が断罪された後に
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エーリカは、膝の上に広げた白いリネンに、一本の桃色の糸を刺し通した。一針、また一針。
描かれているのは、野に咲く慎ましい雛菊の模様だ。来週末に開かれる、教会のバザーに出品するためのハンカチーフだった。
かつて、彼女の手は白く滑らかで、傷一つなかった。
しかし今の指先は、針の頭を押し続けたせいで固くなり、あちこちに小さな傷跡が残っている。それでもエーリカは、この静かな作業を嫌いではなかった。
「エーリカ、少しよろしいですか」
静寂を破ったのは、低く穏やかな声だった。
振り返ると、入り口にシスター・マルタが立っていた。使い古された黒い修道服を着こなした彼女は、深く刻まれた目元の皺を和らげてエーリカを見つめている。
「お客様がお見えですよ。礼拝堂でお待ちです」
「…わかりました」
この辺境の修道院に、自分を訪ねてくるような物好きな人間は一人しか思い当たらない。
彼女は丁寧に刺繍布を折り畳み、籠に収めると、静かに立ち上がった。
長い回廊を歩き、重厚な木製の扉を押し開ける。
高い天井に向かって伸びるステンドグラスから、青や赤の厳かな光が床に落ちていた。祈りを捧げるための、長く並んだ木製のベンチ。その最前列に、見慣れた逞しい背中があった。
エーリカの足音に気づき、男が振り返る。
王太子の護衛騎士の一人であり、ふた月に一度、この場所へやってくる男――ロイドだった。
「またあんたなのね、王太子の金魚の糞。よほど暇なのかしら」
エーリカは口を尖らせ、いつもの毒づきを口にした。かつての傲慢な響きはなく、どこか諦めを含んだ、ただの挨拶のような調子だった。
ロイドは眉一つ動かさず、ただ彫刻のような顔でエーリカを見下ろした。
「暇なわけがないだろう。私は王太子殿下のご命令で、お前がこの地でまっとうに反省の生活を送っているか、定期的な監視を行っているに過ぎない」
声は冷淡だったが、彼はエーリカを温かい日向の席へと視線で促した。
優しい言葉は一切ない。けれど、そんな不器用な気遣いが隠されていることを、エーリカもこの半年で理解し始めていた。
「最近はどうだ。変わりはないか」
「別に、何も変わらないわよ。お祈りの時間以外は、ずっと掃除か洗濯か畑仕事。毎日シスターにこき使われてるわ」
エーリカはそう言って、自分の両手を見つめる。
水仕事であかぎれができた指先。爪は短く切り揃えられ、かつて好んで塗っていたマニキュアの痕跡など微塵もない。
「もう……半年も経ったのね」
荒れた指先を触りながら、エーリカは小さく呟いた。
****
かつて、この私、エーリカ・ヴァルハイト伯爵令嬢の指先は、世界で最も甘やかされていた。
重いものを持つこともなく、冷たい水に触れることもなく、ただ美しいドレスの裾を掴むためだけにあった。
そして当時の私は、どんな望みでも叶う「魔法の言葉」を持っていた。
『お姉様、それ素敵ね。エーリカに頂戴』
三歳年上の姉、クリスタが美しいリボンや、豪奢な髪飾りを身につけているのを見るたび、私はいつもそう言った。
姉のクリスタは、いつも悲しそうに拒んでいた。
『駄目よ、エーリカ。これはお父様がわたくしに買ってくださったものよ』
『お姉様だけずるい!欲しい!ずるい、ずるい、ずるい!』
私が欲しいと言っているのに、なぜお姉様は意地悪するのかしら!
私がそうやって声を荒らげ、床を踏み鳴らして怒ると、いつだって両親が飛んできてくれた。
『クリスタ!お前は姉だろう。それくらい妹に譲ってあげなさい!』
『お父様、お母様……でも、これは――』
『言い訳をするな!エーリカがこれほど泣いているじゃないか。お前が我慢しなさい!』
いつもそうだった。
お姉様が涙を浮かべて俯き、大切なものを手放す。それが私の手に渡る。
不思議なことに、手に入った瞬間にそれらは輝きを失ったように見え、結局一度も使わなかった。
それでも私は、自分が世界で一番愛されているのだと信じて疑わなかった。おねだりをすれば、世界は自分の思い通りに回るのだと。
だから、あの時も同じようにしたのだ。
『お姉様。お姉様の婚約者、素敵ね。エーリカに頂戴』
姉の婚約者として紹介された、子爵家の三男。彼の容姿は人並みだったが、お姉様をとても大切にしているようだったし、お姉様もまるで宝物を自慢するように笑っていた。
だから欲しくなった。
でも姉は困ったように、
『でも、これは家同士の決めた大事なお約束よ?お父様たちが許してくださるかしら……』
と、やんわりと抵抗していたが、すぐに両親が動いた。
『我が伯爵家に婿入りできるのであれば、姉でも妹でも、どちらでも構わないだろう!
エーリカがこれほど望んでいるのだ、婚約者も次期当主の座も変更する!』
子爵家側も、婿入り出来るのであれば問題ないと、あっさりと同意した。
こうして、私はお姉様から婚約者も次期当主の座もまとめて奪い取った。
それなのに、お姉様はあまり悲しそうにしていなかったのが、当時の私は少しだけ奇妙に思えた。
だが、当の婚約者である男の胸中は違った。彼は、本気でお姉様に惚れていたのだ。
何も知る由もないまま迎えた、王宮の夜会。
私は両親と共に入場し、会場の片隅に私の「婚約者」を見つけた。私は周囲に自慢するつもりで、嬉々として彼の腕に抱きついた。
その瞬間、男の瞳に剥き出しの憎悪が宿った。
『触るな!この強欲な癇癪娘め!!』
凄まじい怒号と共に、私は公衆の面前で激しく突き飛ばされた。
大理石の床に尻餅をついた私を見下ろしながら、男は狂ったように叫ぶ。
『私が愛しているのはクリスタ嬢だけだ! お前のような、姉のものを欲しがる浅ましくて醜い癇癪持ちを、妻に迎えるなど死んでも御免だ!見るだけで反吐が出る!お前との婚姻など、こちらから願い下げだ!』
一瞬で静まり返る会場。周囲の貴族たちの冷ややかな視線が一斉に突き刺さる。
慌てた両親は、自分たちの面目を保つため、壁際に佇んでいたお姉様を怒鳴りつけた。
『クリスタ!お前、この男を誑かしていたのか!!こいつはもう、次期当主であるエーリカの婚約者なのだぞ!』
しかし、お姉様は怒号に怯んだ様子もなく、まるで舞台の悲劇のヒロインのように美しく涙を流し、その場に崩れ落ちたのだ。
『お父様、お母様、ごめんなさい。全てわたくしが悪いのです。エーリカが欲しがれば、わたくしは婚約者も、当主の座も、全てを譲らなければならなかったのに……。わたくしの我慢が足りず、彼に悲しい顔を見せてしまったせいで……っ』
張り詰めた静寂のあちこちから、お姉様を憐れみ、私たちを軽蔑するヒソヒソ声が漏れ出し、波のように広がっていく。
『まあ……。妹が姉の婚約者も、家督も奪ったというの?』
『なんて可哀想なクリスタ嬢……。ヴァルハイト伯爵家は、次女を甘やかすために長女をそこまで虐げていたのね』
『傲慢で強欲な妹に、それを盲信する両親か。あんな品性の欠片もない小娘が次期当主だなんて、恐ろしいこと』
周囲の痛烈な批判に、両親は顔を真っ青にして見苦しく言い訳を始める。けれど、その狼狽ぶりがいっそう私たちの浅ましさを証明しているようだった。
床にへたり込んだまま、私はただ呆然と周囲を見上げるしかなかった。なぜ自分がこんなに冷たい目で見られているのか、何が起こっているのか、本当に何も理解できなかった。
だが、その混沌とした悲劇の舞台を、冷徹に切り裂く声が響いた。
『……随分と賑やかな家庭のようだな、ヴァルハイト伯爵』
ゆったりとした、しかし絶対的な威圧感を伴う声。国王陛下その人であった。
国王の冷徹な眼光が、騒然とする会場を凍りつかせる。
『身内の婚姻ひとつ満足に管理できず、公衆の面前で長女を罵倒する。次女にはまともな教育すら施さず、他人のものを強奪する癇癪持ちに育て上げる。
……かねてより、お前の領地経営の不手際や無能さは耳に届いていたが、この有様を見るに、家庭すら統治できぬという噂は真実だったようだな』
『そっ、それは…っ!』
国王陛下は、顔を真っ青にして震える父を、冷酷な笑みを浮かべて見下ろした。
『そういえば、お前には優秀な弟がいたな。……ヴァルハイト伯爵、少し休んでみてはどうだ?領地の政務は、その優秀な弟に譲ってな』
それが、我が家に対する事実上の「引退勧告」であり、強制的な代替わりだったのだと知ったのは、すべてが終わった後日のことだ。
当時の我が家は、もともと領地経営の失敗で首の皮一枚の状態だったらしい。王様はその無能さにトドメを刺したのだ。
けれど、その時の私にそんな難しい事情が解るはずもなかった。
解ったのは、大好きな両親が恐怖でガタガタと震え、私を守ってくれないということ。
せっかく手に入れた婚約者も次期当主の座も、一瞬ですべてが私の手から零れ落ちていくということだけだった。
思い通りにならない現実への恐怖と怒りで、頭が真っ白になった。
『違う、私は悪くない!お姉様だけずるい!!ずるい、みんなずるい!!』
私はいつものように叫び、大理石の床を叩いて大暴れした。
けれど、周囲の冷え切った視線が変わることはなかった。王宮の夜会で床に転がって暴れる私の姿は、王様の言った「まともな教育を受けていない」という言葉の、何よりの証明でしかなかったのだ。
誰も私を助けようとはしなかった。両親すら、私の姿を呆然と見ていた。
こうして、両親は強制隠居の形で田舎へ追放され、ヴァルハイト家から完全に放り出された。
そして次期当主だったはずの私は、着の身着のままで、この辺境の修道院へと引きずられていったのだった。
****
「……本当に、あの頃の私は、自分が世界で一番正しいと信じて疑わなかったわ」
「…さすがにあの姿は引いたぞ」
ロイドのその言葉に、エーリカはかつての自分の愚行を思い出し、恥ずかしさで耳まで赤くしてそっぽを向いた。
「うるさいわね。……でも、そうね。私は本当に、何も知らなかったの」
彼女はぽつりぽつりと、自分の胸の内を吐露し始めた。
「騒げば、周りが甘やかしてくれるから。それが当たり前だと思っていたの。
でも、ここに来て、シスター・マルタにもの凄く怒られたわ。癇癪を起こしたら、おやつは全部没収。食堂にも入れてもらえない。お腹が空いて泣いていたら、シスターが私の目の前に、刺繍の籠を置いたのよ。『騒ぐ体力があるなら、これを完成させなさい。そうすればパンをあげます』って」
エーリカはスカートのポケットから一枚のハンカチを取り出し、そこに施された桃色の雛菊の刺繍を愛おしむようにそっと撫でた。
「最初は、指先に針が刺さるたびに、痛くて怒りで頭がおかしくなりそうだった。
でもね、一針、一針進めていくうちに、ふと気づいたのよ。……この雛菊は、私が作ったものなんだって」
自分の固くなった指先をさすりながら、エーリカはどこか遠くを見るように微笑んだ。
「誰かから貰ったわけでも、奪ったわけでもない。私の努力の結晶なんだって。
……私ね、人のものを奪うのが悪いことだなんて、ここに連れてこられるまで、一度も教えてもらえなかったのよ。みんな、私の癇癪を止めるためだけに、お姉様のものを与え続けたから」
シスター・マルタは怖かった。しかし、彼女はエーリカが暴れても、決して甘やかさなかった。見捨てなかった。ただ真っ直ぐにエーリカの目を見て、その悪行を叱り、同時に、エーリカ自身が自分の力で立つための方法を教え続けた。
「……ここに連れて来られて、よかったわ」
エーリカが寂しげに微笑むと、ロイドは無言のまま、彼女の頭にそっと手を置いた。
大きな手のひらが、ぎこちなく彼女の頭を撫でる。不器用な動きのせいで柔らかな髪が少しだけ乱れてしまい、エーリカは小さく息を吐いた。
「ちょっと、邪魔よ」
ツンとした言い方にロイドは小さく吹き出し、やがてそっと手を離すと、寂しげに目を伏せた。
「……お前が来てよかったと思えるようになったのなら、私はここへ来る必要が、少しずつ無くなっていくな」
****
ロイドは、自分の愛馬の手綱を握りながら、王都の現状を苦々しく思い出していた。
あのヴァルハイト伯爵家の没落劇。
エーリカが去った後も、クリスタは新当主となった叔父の温情で王都の邸に留まっていたが、度々王太子殿下の前に現れては涙を流していた。
『…叔父様は優しくしてくださいますが、あの邸には、もう私の居場所などないのです。今も夜会に赴くたび、恐ろしさに身体が震えてしまいます。……殿下、どうか、この怯える身をお救いください……っ』
縋るように涙を流すクリスタを、王太子殿下は一切の感情を交えない瞳で見下ろし、淡々と言い放った。
『ならば、かつてお前のために家をも捨てようとした、元の婚約者を頼ればいい。彼なら喜んでお前を匿うだろう』
『……え?』
その言葉に、クリスタは涙をぴたりと止めた。
一瞬、その美しい顔があからさまに歪む。
その一瞬の露骨な拒絶こそが、何よりの答えだった。
(……なるほど、そういうことか)
傍らで控えていたロイドは、胸の内で冷ややかに納得していた。
クリスタは、あの男をコマとしてしか見ていなかったのだ。妹に「奪われる」という悲劇のステージを作るため、そして今度は、哀れな被害者として王太子に拾い上げてもらうため――。
(元の婚約者は使い捨てか。本当に狙っているのは、殿下の隣の座というわけだ)
悲劇のヒロインを気取りながら、その実、目をギラつかせてさらなる玉の輿を狙っている。その強欲で浅ましい本性が、ロイドには完全に透けて見えていた。
『妹の不祥事のせいで、周囲から私が悪いかのように誤解されて、とても怖いですわ……』
『叔母様にも嫌われているのか、使用人たちからも歓迎されていないようで…』
『最近は心労のせいか、食事ものどを通らず、夜も悪夢にうなされてばかりで……』
思惑が外れて焦ったのだろう。それからのクリスタは、王太子の気を惹くために、さらに手段を選ばなくなっていった。
そしてついに、
『わたくし、王太子殿下のご婚約者様から嫌がらせをされていて……。あの時と同じように、また居場所を奪われるのではないかと、とても怖くて……っ』
涙ながらに被害者を演じ、王太子の同情を買おうとしたクリスタ。だが、彼女は致命的な勘違いをしていた。
王太子は、冷徹で極めて聡明な合理主義者だ。
即座に裏付けの調査が行われ、クリスタの語った「嫌がらせ」が、すべて大嘘であることが白日の下に晒された。
夜会の最中、王太子はクリスタを冷たく見下ろし、大勢の貴族の前でこう言い放った。
『ヴァルハイト家の血筋は、どうしてこうも自己愛の怪物ばかりなのだ。妹は癇癪で他者から奪い、姉は嘘と涙で他者を陥れる。
これ以上、我が婚約者を侮辱するならば不敬罪として処断する。二度と私の前に姿を現すな』
それは、クリスタにとって完全な社会的抹殺を意味していた。
「哀れな被害者」の仮面を剥がされ、「歪んだ狂言女」としての本性を暴かれた彼女の居場所は、王都のどこにもなくなった。
今では、クリスタは社交界に出ることも叶わず、叔父の温情で遠い領地の片隅に細々と置かれている。
(……自業自得、だな)
ロイドは馬に跨り、王都へと続く街道を見据えた。
思えば、あの歪んだ環境のなかで、まともな教育も受けられずにただ「癇癪娘」として消費されたエーリカも被害者だったのだろう。
だが、あの修道院で、エーリカは自らの手で「雛菊」を咲かせることを覚えた。
もう、姉の花をねだる必要などない。
ロイドはふっと、誰にも見せないかすかな笑みを浮かべ、馬の腹を蹴った。
彼の胸の奥には、あかぎれだらけの手を穏やかに見つめる、一人の少女の穏やかな横顔が、確かな温もりとして残り続けていた。
シスター「花の刺繍を、と伝えた筈ですが…」
エーリカ「別にうさぎの刺繍でもいいじゃないですか」
シスター(………可愛いわね…)




