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最初はタイプじゃなかった君と、明日結婚する  作者: ちょこまろ


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2/5

第2話 友達みたいじゃ、足りなかった

一緒にいて楽な人。


気を遣わなくてよくて、ふざけ合えて、沈黙も怖くない人。


美帆はそれを「友達みたい」と思っていました。


けれど悠斗にとっては、少し違っていて――。


ただ楽なだけだった関係が、少しずつ恋の形に変わっていきます。

 気がつけば、職場で田辺さんと話す時間が増えていた。


 昼休みに同じテーブルになることもあったし、残業帰りに一緒になることもあった。彼はいつも、ほどよくふざけて、ほどよく真面目だった。


 私が「田辺さんって、ほんと友達みたいですね」と言ったのは、たしか夏の終わりだった。


 駅前のカフェで、二人でコーヒーを飲んでいた。


 その日、田辺さんは紙カップの蓋をちゃんと閉めていなかったらしく、持ち上げた瞬間に黒いコーヒーを派手にテーブルへこぼした。


「あ」


 田辺さんが固まった。


 私は一秒遅れて笑った。


「何してるんですか」


「いや、これはカップ側にも責任が」


「ないです。完全に田辺さんです」


「厳しい」


 彼は慌てて紙ナプキンを取りに行き、戻ってくると一生懸命テーブルを拭いた。その姿があまりにも真面目で、私はさらに笑ってしまった。


「佐伯さん、笑いすぎです」


「ごめんなさい。でも、田辺さんって本当に……」


「本当に?」


「友達みたいで楽です」


 その瞬間、田辺さんの手が止まった。


 それから彼は、少しだけ眉を下げた。


「友達ですか」


「え?」


「僕、友達枠なんですね」


「いや、そういう意味じゃなくて」


「そういう意味に聞こえました」


 彼は拗ねたように紙ナプキンを丸めた。


 私は少し慌てた。


「楽って、いい意味ですよ。気を遣わなくていいというか、一緒にいて疲れないというか」


「それは嬉しいですけど」


「けど?」


「僕は、佐伯さんに友達みたいだと思われたいわけじゃないので」


 心臓が、変な音を立てた。


 カフェの中はざわざわしていた。隣の席では大学生らしき二人が笑っていて、店員さんが新しいドリンクを呼んでいた。


 それなのに、その瞬間だけ、田辺さんの声がやけにはっきり聞こえた。


「それって……」


 聞き返そうとした時、田辺さんは自分で言ったことに気づいたように、耳を赤くした。


「すみません。今の、忘れてください」


「忘れられる言い方じゃなかったです」


「ですよね」


 彼は困ったように笑った。


「でも、今日はまだ言いません」


「何を?」


「言ったら、佐伯さん、考えすぎると思うので」


「そんなこと」


「あります」


 断言された。


「佐伯さんは、すごく考える人です。相手の気持ちも、自分の言葉も、その後の空気も。だから、今言ったら、たぶん明日から僕の前で少しだけちゃんとしようとする」


 図星だった。


 私は何も言えなくなった。


「だから、今日はこれ以上言いません」


 田辺さんはそう言って、こぼれたコーヒーで少し濡れた袖を見た。


「それより、僕の袖、終わりました」


 私は吹き出した。


 彼も笑った。


 その会話は、そこで流れた。


 でも私の中には、流れずに残った。


 友達みたいだと思っていた。


 一緒にいて楽で、ふざけ合えて、気を張らなくてよくて、沈黙も怖くない。


 それを私は、友達みたいだと表現した。


 でも田辺さんは、違うと言った。


 その日から、私は少しずつ彼を意識するようになった。


 わかりやすく胸が高鳴るわけではない。


 ただ、職場で彼の声が聞こえると、自然に顔を上げてしまう。昼休みに姿が見えないと、外出かなと思う。帰り道に一緒になると、今日も少し話せるのだと安心する。


 それは、恋の始まりと呼ぶには静かすぎた。


 でも、確かに始まっていた。


 秋になった頃、私は大きな案件を任された。


 新しい職場で初めて、自分が中心になって進める仕事だった。嬉しかった。期待されていると思った。だから私は、いつもの悪い癖を出した。


 大丈夫です。


 できます。


 やります。


 その三つを繰り返して、気づけば自分のキャパシティを超えていた。


 朝早く出社し、夜遅く帰る。家でも資料を開く。休日もメールを確認する。誰かに頼ることが苦手だった。頼るくらいなら、自分でやった方が早い。そう思っていたし、本当は、頼って断られるのが怖かった。


 田辺さんは何度か声をかけてくれた。


「手伝えることありますか」


「大丈夫です」


「本当に?」


「本当に」


「顔色、あまりよくないですよ」


「寝不足なだけです」


「それを大丈夫とは言わない気がします」


「平気です」


 私は笑った。


 ちゃんと笑ったつもりだった。


 でも田辺さんは笑わなかった。


 その日の夜、私は会社の廊下で立ちくらみを起こした。


 コピー機の前だった。資料を取りに行こうとして、ふっと足元が揺れた。壁に手をついた瞬間、視界の端が暗くなった。


「佐伯さん!」


 声が聞こえた。


 次の瞬間、腕を支えられていた。


 田辺さんだった。


 私は慌てて体勢を立て直した。


「大丈夫です」


 その言葉を言った瞬間、田辺さんの表情が変わった。


 怒っていた。


 普段の彼からは想像できないくらい、真剣な顔だった。


「大丈夫じゃないですよね」


「でも、まだ資料が」


「資料より先に座ってください」


「田辺さん、平気だから」


「平気じゃない」


 低い声だった。


 私は息を止めた。


 田辺さんは私を近くの椅子に座らせると、自販機で水を買ってきた。キャップを開けて、私の手に持たせる。


「飲んでください」


「……はい」


 私は言われるまま水を飲んだ。


 廊下には人が少なかった。残業している社員の声が遠くから聞こえる。コピー機のランプだけが、静かに点滅していた。


 田辺さんは私の前に立っていた。


 怒っているのに、手元は少し震えていた。


「佐伯さん」


「はい」


「自分のこと、そんなふうに扱わないでください」


 胸が詰まった。


「そんなふうって」


「壊れるまで使って、倒れそうになっても大丈夫って言って、誰かに迷惑をかけないことだけ考えて」


「仕事だから」


「仕事でもです」


 彼は遮った。


「仕事だから無理をしなきゃいけない時はあります。でも、佐伯さんが倒れるまで一人で抱え込む必要はないです」


「でも、任されたから」


「任されたことと、全部一人で背負うことは違います」


 私は反論できなかった。


 田辺さんは続けた。


「僕は、佐伯さんがちゃんと頑張ってるのを知ってます。誰よりも確認して、誰よりも考えて、迷惑をかけないようにしてるのも知ってます。でも、だからって、佐伯さん自身が佐伯さんを雑に扱っていい理由にはならないです」


 目の奥が熱くなった。


 叱られているのに、嫌ではなかった。


 責められているのではなく、本気で心配されているのだとわかったから。


「……田辺さんって、怒るんですね」


 やっとのことでそう言うと、田辺さんは少しだけ顔を歪めた。


「怒りますよ」


「意外です」


「僕だって、好きな人が倒れそうになってたら怒ります」


 時間が止まった。


 言った本人も気づいたらしく、田辺さんは目を見開いた。


「あ」


 私は水のペットボトルを握ったまま、彼を見上げた。


「今、何て」


「……今のは」


「まだ言わないんじゃなかったんですか」


 私がそう言うと、田辺さんは困ったように息を吐いた。


「本当は、もっとちゃんと言うつもりでした」


「ちゃんと?」


「場所とか、タイミングとか、言葉とか、もう少し考えて」


「田辺さんらしいですね」


「でも、今言わないと、佐伯さんはまた大丈夫って言って逃げると思ったので」


 私は笑いたかったのに、涙が出た。


 田辺さんが慌てた。


「え、すみません。泣かせるつもりじゃ」


「違います」


「違う?」


「怒られたのに、安心しただけです」


 私は手の甲で目元を押さえた。


「私、誰かにちゃんと怒ってもらったの、久しぶりかもしれない」


 前の恋人は、私が無理をしていても気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれない。でも、彼は私が笑っていれば、それでよかった。私も、笑っていれば大丈夫だと思われる方が楽だった。


 でも本当は、誰かに言ってほしかった。


 もうやめなよ。


 つらいなら、つらいって言いなよ。


 ちゃんと休みなよ。


 そんな当たり前の言葉を、私はずっと待っていたのかもしれない。


 田辺さんは、私の前で少しだけしゃがんだ。


「佐伯さん」


「はい」


「好きです」


 廊下の白い灯りの下で、彼は言った。


「最初から、すごく特別だったわけじゃないです。でも、話すたびに、放っておけなくなりました。頑張りすぎるところも、平気なふりをするところも、たまにすごく雑に笑うところも、アイスを半分以上食べるところも」


「それ、最後いる?」


「大事です」


 涙がこぼれたまま、私は笑った。


「佐伯さんが、好きです」


 田辺さんはもう一度言った。


 その言葉は、飾られていなかった。


 でも、まっすぐだった。


 私はすぐには答えられなかった。


 好きかどうか、わからなかったからではない。


 好きだと認めた瞬間、何かが変わってしまうのが怖かった。


 この穏やかな関係が壊れるのが怖かった。


 でも、田辺さんは急かさなかった。


「今すぐ返事はいりません」


「いいんですか」


「よくはないです」


「正直」


「でも、佐伯さんがちゃんと考える時間は必要だと思うので」


 私は、また泣きそうになった。


「ただ」


 田辺さんは少しだけ困った顔で笑った。


「今日はもう帰ってください。仕事は僕が先輩に説明します。佐伯さんは明日、ちゃんと休んでから来てください」


「でも」


「これは告白とは別件です」


「別件」


「はい。体調管理の件です」


 その言い方があまりにも彼らしくて、私はとうとう笑ってしまった。


 その夜、私はタクシーで帰った。


 家に着いてからも、田辺さんの言葉が頭の中で何度も繰り返された。


 好きです。


 自分のことを雑に扱わないでください。


 任されたことと、全部一人で背負うことは違います。


 私はベッドに座ったまま、スマホを握っていた。


 返事をしなければと思った。


 でも、何をどう言えばいいのかわからなかった。


 好きです、と返すには、まだ自分の気持ちに名前をつけるのが怖かった。ありがとう、だけでは足りない。考えさせてください、では距離ができすぎる気がした。


 結局、私は何も送れなかった。


 翌朝、目が覚めると、田辺さんからメッセージが届いていた。


『今日は午前休にしてもらいました。無理して来ないでください』


 その下に、もう一通。


『昨日のことは、佐伯さんを困らせたかったわけではないです。ただ、伝えたかっただけです』


 さらにもう一通。


『でも、返事は急がなくていいです。まず寝てください』


 私は布団の中で笑った。


 寝た後に読むメッセージに「まず寝てください」と書かれているのが、なんだかとても田辺さんらしかった。


 私はその日、午前休を取った。


 午後から出社すると、田辺さんはいつも通りだった。いや、いつも通りにしようとしていた。私に資料を渡す時、少しだけ目が泳いだ。会議で発言する声も、いつもより慎重だった。


 私はその様子を見て、思った。


 この人も怖いのだ。


 私だけが怖いわけではない。


 関係が変わることも、返事を待つことも、きっと彼だって怖い。それでも、言ってくれた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


「友達みたいで楽」

その言葉に、悠斗は少しだけ本音をこぼしました。


そして、美帆がまた一人で頑張りすぎた時、悠斗は初めて本気で怒ります。


優しいだけじゃない。

大切だからこそ、叱ってくれる人。


次話では、美帆が自分の気持ちと向き合い、二人の関係が大きく動き出します。

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