第2話 友達みたいじゃ、足りなかった
一緒にいて楽な人。
気を遣わなくてよくて、ふざけ合えて、沈黙も怖くない人。
美帆はそれを「友達みたい」と思っていました。
けれど悠斗にとっては、少し違っていて――。
ただ楽なだけだった関係が、少しずつ恋の形に変わっていきます。
気がつけば、職場で田辺さんと話す時間が増えていた。
昼休みに同じテーブルになることもあったし、残業帰りに一緒になることもあった。彼はいつも、ほどよくふざけて、ほどよく真面目だった。
私が「田辺さんって、ほんと友達みたいですね」と言ったのは、たしか夏の終わりだった。
駅前のカフェで、二人でコーヒーを飲んでいた。
その日、田辺さんは紙カップの蓋をちゃんと閉めていなかったらしく、持ち上げた瞬間に黒いコーヒーを派手にテーブルへこぼした。
「あ」
田辺さんが固まった。
私は一秒遅れて笑った。
「何してるんですか」
「いや、これはカップ側にも責任が」
「ないです。完全に田辺さんです」
「厳しい」
彼は慌てて紙ナプキンを取りに行き、戻ってくると一生懸命テーブルを拭いた。その姿があまりにも真面目で、私はさらに笑ってしまった。
「佐伯さん、笑いすぎです」
「ごめんなさい。でも、田辺さんって本当に……」
「本当に?」
「友達みたいで楽です」
その瞬間、田辺さんの手が止まった。
それから彼は、少しだけ眉を下げた。
「友達ですか」
「え?」
「僕、友達枠なんですね」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「そういう意味に聞こえました」
彼は拗ねたように紙ナプキンを丸めた。
私は少し慌てた。
「楽って、いい意味ですよ。気を遣わなくていいというか、一緒にいて疲れないというか」
「それは嬉しいですけど」
「けど?」
「僕は、佐伯さんに友達みたいだと思われたいわけじゃないので」
心臓が、変な音を立てた。
カフェの中はざわざわしていた。隣の席では大学生らしき二人が笑っていて、店員さんが新しいドリンクを呼んでいた。
それなのに、その瞬間だけ、田辺さんの声がやけにはっきり聞こえた。
「それって……」
聞き返そうとした時、田辺さんは自分で言ったことに気づいたように、耳を赤くした。
「すみません。今の、忘れてください」
「忘れられる言い方じゃなかったです」
「ですよね」
彼は困ったように笑った。
「でも、今日はまだ言いません」
「何を?」
「言ったら、佐伯さん、考えすぎると思うので」
「そんなこと」
「あります」
断言された。
「佐伯さんは、すごく考える人です。相手の気持ちも、自分の言葉も、その後の空気も。だから、今言ったら、たぶん明日から僕の前で少しだけちゃんとしようとする」
図星だった。
私は何も言えなくなった。
「だから、今日はこれ以上言いません」
田辺さんはそう言って、こぼれたコーヒーで少し濡れた袖を見た。
「それより、僕の袖、終わりました」
私は吹き出した。
彼も笑った。
その会話は、そこで流れた。
でも私の中には、流れずに残った。
友達みたいだと思っていた。
一緒にいて楽で、ふざけ合えて、気を張らなくてよくて、沈黙も怖くない。
それを私は、友達みたいだと表現した。
でも田辺さんは、違うと言った。
その日から、私は少しずつ彼を意識するようになった。
わかりやすく胸が高鳴るわけではない。
ただ、職場で彼の声が聞こえると、自然に顔を上げてしまう。昼休みに姿が見えないと、外出かなと思う。帰り道に一緒になると、今日も少し話せるのだと安心する。
それは、恋の始まりと呼ぶには静かすぎた。
でも、確かに始まっていた。
秋になった頃、私は大きな案件を任された。
新しい職場で初めて、自分が中心になって進める仕事だった。嬉しかった。期待されていると思った。だから私は、いつもの悪い癖を出した。
大丈夫です。
できます。
やります。
その三つを繰り返して、気づけば自分のキャパシティを超えていた。
朝早く出社し、夜遅く帰る。家でも資料を開く。休日もメールを確認する。誰かに頼ることが苦手だった。頼るくらいなら、自分でやった方が早い。そう思っていたし、本当は、頼って断られるのが怖かった。
田辺さんは何度か声をかけてくれた。
「手伝えることありますか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に」
「顔色、あまりよくないですよ」
「寝不足なだけです」
「それを大丈夫とは言わない気がします」
「平気です」
私は笑った。
ちゃんと笑ったつもりだった。
でも田辺さんは笑わなかった。
その日の夜、私は会社の廊下で立ちくらみを起こした。
コピー機の前だった。資料を取りに行こうとして、ふっと足元が揺れた。壁に手をついた瞬間、視界の端が暗くなった。
「佐伯さん!」
声が聞こえた。
次の瞬間、腕を支えられていた。
田辺さんだった。
私は慌てて体勢を立て直した。
「大丈夫です」
その言葉を言った瞬間、田辺さんの表情が変わった。
怒っていた。
普段の彼からは想像できないくらい、真剣な顔だった。
「大丈夫じゃないですよね」
「でも、まだ資料が」
「資料より先に座ってください」
「田辺さん、平気だから」
「平気じゃない」
低い声だった。
私は息を止めた。
田辺さんは私を近くの椅子に座らせると、自販機で水を買ってきた。キャップを開けて、私の手に持たせる。
「飲んでください」
「……はい」
私は言われるまま水を飲んだ。
廊下には人が少なかった。残業している社員の声が遠くから聞こえる。コピー機のランプだけが、静かに点滅していた。
田辺さんは私の前に立っていた。
怒っているのに、手元は少し震えていた。
「佐伯さん」
「はい」
「自分のこと、そんなふうに扱わないでください」
胸が詰まった。
「そんなふうって」
「壊れるまで使って、倒れそうになっても大丈夫って言って、誰かに迷惑をかけないことだけ考えて」
「仕事だから」
「仕事でもです」
彼は遮った。
「仕事だから無理をしなきゃいけない時はあります。でも、佐伯さんが倒れるまで一人で抱え込む必要はないです」
「でも、任されたから」
「任されたことと、全部一人で背負うことは違います」
私は反論できなかった。
田辺さんは続けた。
「僕は、佐伯さんがちゃんと頑張ってるのを知ってます。誰よりも確認して、誰よりも考えて、迷惑をかけないようにしてるのも知ってます。でも、だからって、佐伯さん自身が佐伯さんを雑に扱っていい理由にはならないです」
目の奥が熱くなった。
叱られているのに、嫌ではなかった。
責められているのではなく、本気で心配されているのだとわかったから。
「……田辺さんって、怒るんですね」
やっとのことでそう言うと、田辺さんは少しだけ顔を歪めた。
「怒りますよ」
「意外です」
「僕だって、好きな人が倒れそうになってたら怒ります」
時間が止まった。
言った本人も気づいたらしく、田辺さんは目を見開いた。
「あ」
私は水のペットボトルを握ったまま、彼を見上げた。
「今、何て」
「……今のは」
「まだ言わないんじゃなかったんですか」
私がそう言うと、田辺さんは困ったように息を吐いた。
「本当は、もっとちゃんと言うつもりでした」
「ちゃんと?」
「場所とか、タイミングとか、言葉とか、もう少し考えて」
「田辺さんらしいですね」
「でも、今言わないと、佐伯さんはまた大丈夫って言って逃げると思ったので」
私は笑いたかったのに、涙が出た。
田辺さんが慌てた。
「え、すみません。泣かせるつもりじゃ」
「違います」
「違う?」
「怒られたのに、安心しただけです」
私は手の甲で目元を押さえた。
「私、誰かにちゃんと怒ってもらったの、久しぶりかもしれない」
前の恋人は、私が無理をしていても気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれない。でも、彼は私が笑っていれば、それでよかった。私も、笑っていれば大丈夫だと思われる方が楽だった。
でも本当は、誰かに言ってほしかった。
もうやめなよ。
つらいなら、つらいって言いなよ。
ちゃんと休みなよ。
そんな当たり前の言葉を、私はずっと待っていたのかもしれない。
田辺さんは、私の前で少しだけしゃがんだ。
「佐伯さん」
「はい」
「好きです」
廊下の白い灯りの下で、彼は言った。
「最初から、すごく特別だったわけじゃないです。でも、話すたびに、放っておけなくなりました。頑張りすぎるところも、平気なふりをするところも、たまにすごく雑に笑うところも、アイスを半分以上食べるところも」
「それ、最後いる?」
「大事です」
涙がこぼれたまま、私は笑った。
「佐伯さんが、好きです」
田辺さんはもう一度言った。
その言葉は、飾られていなかった。
でも、まっすぐだった。
私はすぐには答えられなかった。
好きかどうか、わからなかったからではない。
好きだと認めた瞬間、何かが変わってしまうのが怖かった。
この穏やかな関係が壊れるのが怖かった。
でも、田辺さんは急かさなかった。
「今すぐ返事はいりません」
「いいんですか」
「よくはないです」
「正直」
「でも、佐伯さんがちゃんと考える時間は必要だと思うので」
私は、また泣きそうになった。
「ただ」
田辺さんは少しだけ困った顔で笑った。
「今日はもう帰ってください。仕事は僕が先輩に説明します。佐伯さんは明日、ちゃんと休んでから来てください」
「でも」
「これは告白とは別件です」
「別件」
「はい。体調管理の件です」
その言い方があまりにも彼らしくて、私はとうとう笑ってしまった。
その夜、私はタクシーで帰った。
家に着いてからも、田辺さんの言葉が頭の中で何度も繰り返された。
好きです。
自分のことを雑に扱わないでください。
任されたことと、全部一人で背負うことは違います。
私はベッドに座ったまま、スマホを握っていた。
返事をしなければと思った。
でも、何をどう言えばいいのかわからなかった。
好きです、と返すには、まだ自分の気持ちに名前をつけるのが怖かった。ありがとう、だけでは足りない。考えさせてください、では距離ができすぎる気がした。
結局、私は何も送れなかった。
翌朝、目が覚めると、田辺さんからメッセージが届いていた。
『今日は午前休にしてもらいました。無理して来ないでください』
その下に、もう一通。
『昨日のことは、佐伯さんを困らせたかったわけではないです。ただ、伝えたかっただけです』
さらにもう一通。
『でも、返事は急がなくていいです。まず寝てください』
私は布団の中で笑った。
寝た後に読むメッセージに「まず寝てください」と書かれているのが、なんだかとても田辺さんらしかった。
私はその日、午前休を取った。
午後から出社すると、田辺さんはいつも通りだった。いや、いつも通りにしようとしていた。私に資料を渡す時、少しだけ目が泳いだ。会議で発言する声も、いつもより慎重だった。
私はその様子を見て、思った。
この人も怖いのだ。
私だけが怖いわけではない。
関係が変わることも、返事を待つことも、きっと彼だって怖い。それでも、言ってくれた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
「友達みたいで楽」
その言葉に、悠斗は少しだけ本音をこぼしました。
そして、美帆がまた一人で頑張りすぎた時、悠斗は初めて本気で怒ります。
優しいだけじゃない。
大切だからこそ、叱ってくれる人。
次話では、美帆が自分の気持ちと向き合い、二人の関係が大きく動き出します。




