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右手の余白

作者: 久保ハル
掲載日:2026/03/18

スクリーンショットを撮ったのは、たぶん癖みたいなものだった。

誰に見せるわけでもないのに、指が勝手に動いて、あの画面を切り取った。


「幸せになるんだよ」


最後のメッセージは、それだけだった。


既読の表示がついたまま、会話は止まっている。返信欄は空白のまま。何か打とうとして、消して、また打って、結局なにも送れなかった。送るべき言葉が、最後まで見つからなかった。


ワンルームのマンションは、やけに静かだった。

生活音が減ったせいか、それとも気持ちのせいか、壁の向こうの足音までやけに遠く感じる。


ベッドに腰を下ろす。100cm×195cmのシングル。

二人で寝るには少し狭いねって笑っていたはずなのに、今はやけに広い。


こんなに余白があったんだ、と思う。


右手を伸ばす。

そこには、何もない。

あの人の体温も、寝返りの気配も、寝ぼけて掴んできた指も。


右手が、寂しい。


思い返せば、ちゃんと喧嘩もしていなかった。

言いたいことは飲み込んで、相手もたぶん同じで、波風を立てないように、優しくしあって、それでうまくいっているつもりだった。


でも本当は、少しくらいぶつかってもよかったのかもしれない。

嫌だって言って、違うって言って、困らせて、困らされて、それでも一緒にいる理由を確かめるみたいに。


喧嘩もしたかった。


スマホの画面をもう一度開く。

スクリーンショットのフォルダに、さっきの一枚が増えている。


「幸せになるんだよ」


その言葉は優しすぎて、少しだけ残酷だった。

まるで、自分はもうその中に含まれていないみたいで。


画面を閉じて、ベッドに横になる。

広すぎる空間に、身体が沈んでいく。


それでも、たぶん。


いつかこの広さにも慣れてしまうんだろう。

右手を伸ばさなくなる日も来るんだろう。


それが、少し怖くて、少しだけ救いだった。


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