三度目
その日は、何も起きなかった。
講義も、バイトも、会話も。
すべてが滑らかだった。
違和感が、ほとんどない。
それが異様だった。
蒼は気づく。
“蒼”という音を、今日は一度も聞いていない。
誰も呼ばない。
自分でも思い出さない。
スマホの表示名は「亮太」。
もはやそれを疑う気持ちが薄い。
柚月からのメッセージも来ない。
まるで、準備期間のようだった。
夜。
0:00が近づく。
蒼は、もう遠回りしなかった。
自然に四ツ辻へ向かう。
逃げるという発想が、少し面倒に感じる。
中央は静かだ。
街灯の下、あのわずかな沈み。
蒼は立ち止まる。
まだ中央には入っていない。
それなのに。
足元の影が、二重になっている。
「三回目だよ」
声は、外からではない。
喉の奥から聞こえる。
蒼は時計を見る。
23:59。
深呼吸。
不思議と、恐怖は弱い。
むしろ、確かめたい気持ちが強い。
三分で何が変わるのか。
何が消えるのか。
中央へ、一歩。
0:00。
音が消える。
世界が止まる。
だが前回より、静けさに慣れている。
影が、足元で揺れる。
一つ。
二つ。
三つ。
今回は、四つ目が現れる。
それは、形が曖昧だ。
顔も、輪郭も、はっきりしない。
「最後だよ」
頭の内側の声。
蒼は口を開く。
「……俺は」
自然に出た言葉。
俺。
以前は「僕」だった。
いつから変わった?
影の一つが、蒼の足元から離れる。
それは“蒼”の形をしている。
少し怯えた顔。
迷いの多い目。
「戻りたい?」
影が問う。
蒼は考える。
戻る。
蒼に。
だが、その姿はどこか頼りない。
今の自分より、弱い。
「楽な方にする?」
別の影が囁く。
亮太の形。
少しだけ、強い。
判断が早い。
迷いが少ない。
蒼は気づく。
亮太のほうが、生きやすい。
蒼は、考えすぎる。
亮太は、考えない。
そのとき。
四つ目の影が、口を開く。
声はない。
だが意味だけが流れ込む。
“名前はいらない”
蒼の胸が締め付けられる。
名前がなければ、呼ばれない。
呼ばれなければ、削られない。
だが。
呼ばれなければ、存在しない。
0:02。
影たちが、ゆっくりと蒼の身体に重なる。
冷たい感触。
記憶が薄くなる。
高校時代の風景。
“蒼”と呼ばれた声。
消える。
亮太という音が、自然に馴染む。
だがその奥で。
さらに別の音が、形を作り始める。
まだ知らない名前。
0:03。
世界が再起動する。
車の音。
遠くのテレビの声。
蒼は中央に立っている。
一人で。
影は一つ。
スマホが震える。
画面を見る。
表示名は――
空白。
名前がない。
蒼は瞬きをする。
再読み込み。
表示名:
____
文字化けではない。
空白。
SNSアカウントを開く。
ユーザー名が消えている。
投稿履歴も、名前だけが抜け落ちている。
友人からのメッセージ。
ねえ、誰だっけ?
真由から。
ごめん、名前なんだっけ?
柚月から。
固定されなかったね。
消えかけてる。
蒼は、喉を鳴らす。
声を出そうとする。
「……」
自分の名前を言おうとする。
蒼?
違う。
亮太?
違う。
どちらも、しっくりこない。
頭の中に、空白がある。
四ツ辻の中央が、わずかに温かい。
まるで歓迎しているように。
「呼ばれないなら、ここにいられるよ」
耳元の囁き。
振り向かない。
だが今回は、違う。
恐怖が戻ってくる。
名前がない。
それは、固定されないこと。
どこにも属さないこと。
存在の足場がない。
足元の感覚が、薄くなる。
地面に立っているのに、沈んでいく感覚。
スマホが再び震える。
柚月。
まだ間に合う。
一度、誰かに本気で呼ばれれば戻る。
でも、誰が?
蒼は、周囲を見渡す。
夜の住宅街。
誰もいない。
呼ぶ人間がいない。
そのとき。
四ツ辻の向こうから、足音。
ゆっくり。
近づく。
街灯の光に、人影が入る。
それは――
蒼。
いや。
亮太。
どちらともつかない、自分の顔。
その人物が、静かに口を開く。
「……」
音はない。
だが、確かに名前を呼んでいる。
蒼の胸が、締め付けられる。
呼ばれれば、固定される。
だが。
どの名前で?
影の自分が、もう一歩近づく。
「決めて」
蒼は、口を開く。
その瞬間。
初めて、はっきり理解する。
自分がどの名前を選ぶのかで、
この物語の最初のページが書き換わることを。




