覚えている人
翌朝。
蒼は目覚ましより先に目を開けた。
夢は見ていない。
それなのに、疲れている。
枕元のスマホを確認する。
表示名は――
亮太
昨日と同じ。
だが、違和感が昨日より薄い。
それが、怖い。
机のノートを開く。
「三分目」
「あと、二回」
その文字を見ても、動悸はしない。
まるで他人のメモのようだ。
蒼は一瞬、思考が止まる。
“蒼”と考えること自体が、どこかぎこちない。
大学へ向かう途中、四ツ辻を避ける。
遠回り。
それでも、視界の端に中央が浮かぶ。
凹み。
影。
あの三分。
ポケットの中でスマホが震える。
知らない番号からの着信。
蒼は出ない。
だが、すぐにメッセージが届く。
やっと繋がった。
差出人の名前。
柚月
見覚えがない。
蒼、でいいんだよね?
心臓が、わずかに跳ねる。
蒼。
その音が、胸に刺さる。
蒼は返信する。
「誰?」
数秒後。
忘れてるの?
それとも、もう二分目?
蒼の指が止まる。
二分目。
三分目ではなく。
二分目。
あなた、三分で呼び直されるの。
一回ごとに、元の名前が薄くなる。
蒼は喉が渇く。
「元の名前って何」
既読。
すぐに返信。
蒼。
亮太は二回目。
蒼は立ち止まる。
通学路の真ん中で。
人が避けて通る。
亮太は二回目。
つまり。
あと一回、呼び直されたら。
三回目。
そのとき。
どうなる?
「君は誰だ」
返信。
少し間が空く。
私は、覚えてる側。
あなたの最初の名前も。
蒼の呼吸が浅くなる。
「最初?」
既読。
あなた、最初は蒼じゃない。
視界が揺れる。
足元の感覚が曖昧になる。
最初は蒼じゃない?
では。
蒼は何回目だ?
亮太は二回目。
蒼はその前。
その前は?
四ツ辻で呼ばれるたびに、少しずつ削れる。
最後に残るのは、呼びやすい名前。
呼びやすい。
意味が分からない。
だが。
確かに。
“亮太”という音は、口に出しやすい。
蒼は少しだけ、言いにくい。
短くて、曖昧で、すぐ消えそうだ。
そのとき、背後から声。
「亮太!」
振り向く。
真由が駆け寄ってくる。
自然な笑顔。
違和感が、さらに薄れる。
蒼は一瞬、考える。
今、どちらの名前で返事をすべきか。
ほんの一瞬の迷い。
だが真由は当然のように続ける。
「昨日、四ツ辻行った?」
蒼の心臓が跳ねる。
「なんで」
「だって、ストーリー上げてたじゃん」
スマホを見せられる。
自分のアカウント。
投稿は削除されている。
だが閲覧履歴に残っている。
暗い十字路。
中央に立つ影。
テキスト。
三分で十分。
投稿時刻 0:01。
蒼は記憶を探る。
ない。
だが、恐怖が昨日より弱い。
それが一番怖い。
ポケットのスマホが震える。
柚月から。
ねえ、今どっちで返事した?
蒼は画面を見つめる。
自分がさっき、真由に何と答えたか。
思い出せない。
口は動いた。
声も出た。
だが。
どの名前で返事をした?
その瞬間、背中が冷える。
人格が、少しずれている。
考え方が、ほんのわずかに。
昨日なら怖がっていた。
今は、状況を冷静に整理している。
まるで。
“亮太”の性格に寄っている。
柚月から再び。
あと一回で、固定される。
その前に思い出して。
蒼は震える指で打つ。
「最初の名前は?」
数秒。
既読がつかない。
数十秒。
画面が静まり返る。
そして、やっと。
……ごめん。
そこだけ、もう思い出せない。
蒼は立ち尽くす。
唯一覚えていると言った存在ですら、
最初の名前を思い出せない。
つまり。
削られた名前は、他人の記憶からも消える。
残っているのは。
蒼。
そして亮太。
三回目が来たら。
次の名前になるのか。
それとも。
名前が、なくなるのか。
四ツ辻の方向から、風が吹く。
耳元で、かすかな声。
「準備できた?」
蒼は、振り向かない。
だが。
頭の中で、自然に浮かぶ。
次の名前。
まだ聞いていないはずなのに。
その音が、はっきりと。
――
蒼は、思わず息を止める。
自分が、少しだけ楽しみにしていることに気づいたからだ。
変わることを。
その感情が、本当に自分のものなのか。
それすら、分からない。




