三分の中央
23:57。
蒼は部屋を出ていた。
止める理由はいくらでもあった。
だが止まらなかった。
四ツ辻は、夜の底に沈んでいる。
街灯の光が薄く広がり、中央だけが、わずかに暗い。
時計を見る。
23:59。
あと一分。
帰れる。
まだ帰れる。
そのはずなのに。
足が中央へ向かう。
一歩。
アスファルトの感触が、少し柔らかい。
二歩。
周囲の音が遠のく。
三歩。
中央。
0:00。
世界が、音を失う。
車の走行音も、風も、虫の声も、何もない。
完全な無音。
蒼は立っている。
動ける。
だが時間が、進んでいない気がする。
視界がわずかに揺れる。
足元を見る。
自分の影がある。
だが、影が二つある。
街灯は一つなのに。
影の片方が、ゆっくりと顔を上げる。
蒼は理解が追いつかないまま、それを見る。
それは自分だ。
だが、口元がわずかに違う。
ほんの少しだけ、笑い方が違う。
「遅かったね」
声は外からではない。
頭の内側で鳴る。
蒼は口を開く。
「……戻れ」
言葉が震える。
影のもう一つが、首を傾げる。
「どっちに?」
蒼の背後で、気配が動く。
振り向かない。
振り向けば終わると、どこかで分かっている。
だが。
耳元で、はっきりと。
「蒼」
懐かしい声。
自分の名前。
安心が広がる。
振り向きかける。
その瞬間。
足元の影が、もう一つ増える。
三つ目。
それは何も言わない。
ただ、中央にぴったり重なる。
影が重なるたびに、胸が締め付けられる。
「三分だけだよ」
頭の中の声。
「三分で、呼び直すだけ」
呼び直す。
蒼は必死に、自分の名前を思い出す。
蒼。
蒼。
蒼。
だが、その音が薄れていく。
代わりに浮かぶ。
亮太。
自然に。
ずっと前からそうだったように。
影の一つが、蒼の足元から離れ、中央に立つ。
それは蒼と同じ姿。
だが、まばたきの間に、顔がはっきりする。
それは。
蒼より少しだけ、自信のある顔。
少しだけ、迷いのない目。
「こっちのほうが楽だよ」
0:02。
時間が、微かに動く。
蒼は自分の胸を掴む。
心臓が速い。
息が荒い。
だが声が出ない。
中央の影が、手を伸ばす。
触れていないのに、何かが引き抜かれる感覚。
記憶ではない。
感情でもない。
“呼ばれ方”。
蒼という音が、喉の奥から剥がれていく。
0:03。
どこかで音が戻る。
遠くで車が走る。
虫が鳴く。
世界が再起動する。
蒼は、中央に立っている。
一人で。
影は一つ。
時計を見る。
0:03。
三分が、消えている。
息が荒い。
何が起きたのか、はっきり思い出せない。
だが、何かが減っている。
ポケットのスマホが震える。
画面を見る。
ロック画面の表示名。
亮太
蒼は、ゆっくりと口を開く。
「……」
名前を言おうとする。
だが、最初に出てきたのは。
「りょう……」
蒼は唇を噛む。
必死に、思い出す。
蒼。
あおい。
その音が、遠い。
四ツ辻の中央が、わずかに温かい。
まるで、誰かが今まで立っていたように。
そのとき。
背後から、小さな声。
「まだ残ってる」
振り向かない。
振り向かない。
だが声は続く。
「次は、消えるよ」
蒼の視界の端で、影が一瞬だけ、二重になる。
すぐに戻る。
だが確実に、何かがずれている。
スマホに通知。
差出人:蒼
あと一回。
送信時刻。
0:00。
三分間の、内側。
蒼は、中央から一歩、外へ出る。
地面の硬さが戻る。
だが、胸の奥が軽い。
軽すぎる。
何かを失った人間の軽さ。
帰り道。
頭の中で、名前を繰り返す。
蒼。
蒼。
蒼。
だが途中で、必ず混ざる。
亮太。
どちらが本物か、もう分からない。
部屋のドアを開ける。
机の上のノートが開いている。
新しい文字が増えている。
「三分目」
その下に、かすれた字。
「あと、二回」
蒼は立ち尽くす。
三分で、何かを削られる。
二回。
つまり、あと六分。
六分後。
自分は、どちらの名前で立っているのか。
それとも。
もう、どちらでもないのか。




