消えないもの
蒼は、その夜、四ツ辻の中央には立たなかった。
立たなかったはずだった。
ベッドに横になり、目を閉じる。
眠りは浅く、夢と現実の境目が曖昧になる。
どこかで、足音がする。
アスファルトを踏む乾いた音。
一歩。
また一歩。
四方向から。
蒼は夢の中で、中央に立っている。
足元の地面は、わずかにへこんでいる。
そこだけ色が違う。
誰かが、長いあいだ、そこに立っていたように。
声がする。
「まだ、持ってるんだ」
目が覚める。
朝。
スマホの画面が明るい。
通知はない。
時刻は7:12。
だが、写真フォルダに赤いバッジがついている。
昨夜、撮った覚えのない画像が一枚。
開く。
四ツ辻。
中央。
そこに立っているのは――
蒼。
いや。
顔ははっきり写っていない。
街灯の逆光で黒く潰れている。
だが服装は昨日のままだ。
撮影時刻は 23:58。
蒼は、その時間、家にいたはずだ。
写真を拡大する。
中央に立つ影の胸元。
わずかに見えるネームタグ。
ぼやけた文字。
「Ryo…」
それ以上は読めない。
蒼は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
大学へ向かう途中、ふと思い出す。
高校時代の卒業アルバム。
自分の名前が残っている、はずのもの。
帰宅後、実家に電話をかける。
「アルバム、まだある?」
母は少し不思議そうに答える。
「あるけど。どうしたの、亮太」
蒼は息を止める。
「……蒼だよ」
沈黙。
「何言ってるの?」
軽く笑う声。
冗談だと思っている。
蒼は言葉を失う。
「アルバム、見てほしいんだけど」
数分後、写真が送られてくる。
開く。
クラス集合写真。
二列目、左から三番目。
自分の顔。
その下の名前。
佐伯 亮太
蒼は画面を凝視する。
違う。
そこは「蒼」だった。
青いインクで、自分の字でサインもしていたはずだ。
だが、どこにも“蒼”の文字はない。
念のため、検索する。
「佐伯蒼」
ヒットしない。
「佐伯亮太」
自分のSNSアカウントが出てくる。
アイコンも投稿履歴も、自分のものだ。
だが表示名は「亮太」。
投稿の一つに目が止まる。
昨夜23:59。
立った。
思い出せそう。
蒼は投稿した覚えがない。
コメント欄。
ようやく戻る?
今度は長く持つといいね。
戻る?
何に?
そのとき、机の上に置いていたノートが床に落ちる。
開いたページに目がいく。
走り書きのメモ。
自分の筆跡。
震えた文字で。
「振り向くな」
その下に、もう一行。
「三分間が危ない」
蒼は頭を押さえる。
三分。
昨夜の写真の時刻。
三分の空白。
何があった?
ゆっくりと、記憶を探る。
四ツ辻。
中央。
暗い地面。
声。
「戻る?」
蒼は、はっとする。
戻る。
それは、蒼に戻るのか。
それとも、亮太に戻るのか。
もしかすると。
今が“途中”なのかもしれない。
どちらにも完全に固定されていない状態。
だから、違和感が残っている。
もし。
違和感が消えたら。
その瞬間、自分は完全にどちらかになる。
そして、もう片方の名前は、最初から存在しなかったことになる。
窓の外を見る。
夕暮れ。
四ツ辻が見える位置ではないのに、
なぜか中央が頭に浮かぶ。
そこは空席ではない。
そこは、名前を置き直す場所だ。
スマホが震える。
差出人:蒼
まだ残ってるね。
じゃあ、もう一度。
蒼の指が震える。
返信欄を開く。
「お前は誰だ」
送信。
既読がつく。
すぐに返信。
君だよ。
部屋の奥で、何かが軋む音がする。
カチ、と。
まるでドアノブが回る音。
蒼はゆっくり振り向く。
振り向いた瞬間。
自分の口が、勝手に動く。
「……亮太」
自分の声で。
違う名前が、自然に出る。
蒼は口を押さえる。
その奥から、かすかに別の声が漏れる。
「もう少し」
時計を見る。
23:57。
四ツ辻まで、徒歩三分。




