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四ツ辻に立つ声  作者: 臥亜


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2/5

自然な間違い

翌朝、蒼はほとんど眠れないまま大学へ向かった。


電車の窓に映る自分の顔を何度も確認する。


顔は変わっていない。

声も、身体も、いつもの自分だ。


名前だけだ。


たったそれだけのはずなのに、

胸の奥に小さな棘が刺さっている。


講義室に入る。


後ろの席に座ると、隣の真由が手を振った。


「おはよ、蒼」


その一言に、蒼は救われる。


間違っていない。


何も変わっていない。


だが出席確認が始まったとき。


教授が名簿を見ながら、淡々と読み上げる。


「……佐伯、亮太」


教室が静まる。


誰も返事をしない。


教授が顔を上げる。


「佐伯、亮太?」


真由が、蒼の腕を軽くつついた。


「呼ばれてるよ?」


蒼は笑いかける。


「いや、違うって」


「なに言ってんの。佐伯亮太でしょ?」


血の気が引く。


「……佐伯蒼だよ」


真由はきょとんとする。


「え? 何それ。改名でもしたの?」


教室の何人かがこちらを見る。


教授が少し苛立った声で言う。


「佐伯亮太、いるのか?」


蒼は、ゆっくり手を挙げた。


空気が、わずかに整う。


「はい」


自分の声が、少し遅れて聞こえた気がした。


教授は何事もなかったようにチェックを入れる。


真由が小声で笑う。


「寝ぼけてる?」


蒼は何も言えない。


講義が始まる。


ノートを開く。


表紙に書かれた自分の名前を見て、息が止まる。


佐伯 亮太


ボールペンの筆跡は、自分のものだ。


昨日まで確かに「蒼」と書いていた。


だがその文字はどこにもない。


ページをめくる。


過去の講義ノートすべてに、同じ名前。


亮太。


亮太。


亮太。


蒼は自分の記憶を探る。


いつ書き換えた?


いつ変えた?


そんな覚えはない。


だが、違和感のほうが浮いている。


周囲は自然だ。


自然すぎる。


昼休み。


学食のレシート。


名前欄には「R. Saeki」。


友人のグループチャット。


亮太、今日バイト?


蒼は返信欄を開く。


指が止まる。


「蒼だよ」と打ちかける。


だがその文字が、ひどく幼稚に見える。


間違っているのは自分ではないか。


皆が正しくて、自分だけが取り残されているのではないか。


そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。


非通知。


蒼は出ない。


だが留守番電話が入る。


再生する。


無音。


数秒の沈黙。


そして。


「まだ覚えてるんだ」


かすかな息遣い。


続いて、笑い声。


「珍しいね」


通話は切れる。


蒼の手が震える。


その瞬間、背後から声がする。


「亮太」


振り向く。


真由が立っている。


「今日、顔色悪いよ?」


蒼は彼女を見る。


彼女の目に、嘘はない。


自然だ。


全部が自然だ。


不自然なのは、自分だけだ。


帰り道。


あの四ツ辻に差しかかる。


無意識に、中央を見てしまう。


そこには何もない。


だが、中央のアスファルトに、小さな傷がある。


十字に重なる擦り跡。


まるで、何度も誰かが立ったような。


そのとき。


後ろから、はっきりと。


「蒼」


心臓が跳ねる。


振り向く。


誰もいない。


だが今度は間違いない。


自分の名前だった。


安堵と恐怖が同時に押し寄せる。


正しい名前。


間違っていない証拠。


だが、次の瞬間。


その声が、もう一度。


「……前はそうだったね」


風が止む。


四ツ辻の中央が、わずかに暗く沈む。


蒼のスマホが震える。


新しい通知。


差出人:蒼


もう一度立てば、思い出せるよ。


送信時刻。


——今。


蒼は、ゆっくりと中央へ視線を落とす。


足が、わずかに前へ動く。


自分の意思ではない。


それでも。


止めなければいけないと、どこかで分かっている。


なぜなら。


振り向いたからだ。


もう一度、呼ばれたら。


今度は、どちらの名前で応えるのか。


蒼は、まだ決められない。

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