呼び声
最初に聞いたとき、それは自分の名前だと思わなかった。
夜の空気は薄く、冷えていた。
住宅街の四ツ辻。信号もなく、ただ街灯がひとつ立っているだけの十字路。
蒼はバイト帰りだった。
特別な夜ではない。
疲れていて、少しだけスマホを見ながら歩いていた。
そのとき。
「――りょうた」
風の擦れる音に紛れるように、低い声。
蒼は足を止めた。
聞き間違いだと思った。
近くに人影はない。
左右の道も、後ろも、静まり返っている。
もう一度。
今度は、はっきりと。
「りょうた」
蒼は振り向いた。
それは反射だった。
自分が呼ばれたわけではない。
なのに、振り向いてしまった。
背後には誰もいない。
ただ、十字路の中央が、わずかに暗い。
街灯の光が届いているはずなのに、そこだけ色が沈んでいる。
蒼はしばらく立ち尽くした。
胸の奥がざわつく。
りょうた?
知らない名前だ。
誰か別の人間を呼んだ声が、偶然聞こえただけだろう。
そう思い直し、歩き出す。
その瞬間。
背中に、わずかな違和感。
まるで、誰かに見られているような。
蒼は振り向かない。
さっき振り向いたことを、なぜか後悔していた。
家に帰り、靴を脱ぎ、部屋に入る。
いつものワンルーム。
何も変わっていない。
だがスマホに通知が一件届いていた。
SNSのフォロー通知。
見覚えのないアカウント。
アイコンは真っ黒。
ユーザー名は、
@ryota_444
蒼は眉をひそめる。
444。
不吉な並びだと思う前に、DMが届いた。
昨日は中央に立ってたよね。
昨日?
中央?
蒼はスクロールする。
昨日の記憶を探す。
昨日は授業のあと、友人とラーメンを食べて、
まっすぐ帰ったはずだ。
十字路の中央に立った覚えはない。
DMの続き。
名前、間違えられる前に戻ったほうがいいよ。
蒼の喉が乾く。
間違えられる?
なにを?
通知がもう一件。
大学のオンライン出席システムからの自動メール。
件名:
【出席確認】亮太 様
蒼は一瞬、意味が分からなかった。
本文を開く。
亮太様
本日の講義の出席が確認できませんでした。
亮太様。
蒼は画面を見つめる。
ログイン情報を確認する。
IDも、パスワードも、自分のものだ。
だが画面右上の表示名は。
亮太
指先が冷たくなる。
入力ミスだろう。
システムのバグ。
そう思い、ログアウトし、再度ログインする。
変わらない。
亮太。
蒼は、自分の名前を小さく口に出してみる。
「……あおい」
音は正しい。
だが、どこか遠い。
もう一度。
「あおい」
部屋の中に、声が吸い込まれていく。
そのとき。
背後で、かすかな音。
カチ、と小さく。
蒼は振り向く。
玄関のドアノブが、ゆっくりと回っていた。
誰もいないはずの部屋で。
カチ。
止まる。
沈黙。
そして、耳元で。
「りょうた」
今度は、はっきりと。
蒼のすぐ後ろから。
振り向いた瞬間、部屋はいつも通りだった。
だがスマホの画面には、通知が増えている。
ようこそ。
差出人:
蒼
蒼は、画面を見つめたまま動けなかった。
送信時刻は、三分前。
その三分間の記憶が、ない。




