①
血の匂いがした。
帝国軍の兵士たちは、燃え盛る家屋を眺めながら満足げに笑みを浮かべた。そして二十六歳の若き士官にとって、この夜の作戦は昇進への確実な一歩――のはずだった。
グリューネフェルト村――「緑の野」を意味するその名を持つ美しき村は、今や炎と灰に覆われている。緑から黒への大胆な色彩転換である。
「中尉殿、村人たちは広場に集めました」
部下の報告に、若い帝国軍の中尉――エドゥアール・ド・モンフォールは満足げに頷いた。二十六歳にして中尉。決して出世街道を爆走しているとは言えないが、今夜の功績があれば話は別だ。彼の背後には、帝国南方辺境守備隊第三中隊の騎兵三十騎と歩兵五十名が控えている。松明の灯りが、彼らの顔を赤く照らしていた。まるで地獄の門番のような雰囲気だが、本人たちは気づいていない。
「よろしい。見せしめには十分だろう」
モンフォール中尉は馬上から村人たちを見下ろした。老人、女、子供――誰もが恐怖に震えている。そして彼らの一人一人が命乞いをしているわけだが、モンフォールの瞳にはそれは届いていなかった。昇進への野心が、視界を曇らせていたのだ。
「聞け、反逆者どもよ!」
モンフォールの声が夜の闇に響いた。演説の練習を三日間もしてきた成果である。
「貴様らは解放軍とやらに協力し、神聖なるヴァルニア帝国および陛下に反逆した。その罪は重い。だが、皇帝陛下は慈悲深くあられる。今ここで忠誠を誓うならば、命だけは助けてやろう」
村人たちにとってこれ以上に魅力的な話はないはずだった。ただし、提案者が村を燃やした張本人でなければ、の話だが。そこには沈黙の空気しかなかった。村人たちは互いに顔を見合わせたが、ついには誰も声を上げなかった。
「返事がないようだな」
モンフォールは内心、焦っていた。台本ではここで村人が懇願するはずだったのだが。彼は兵士に一人の老人を引っ張り出させ、自らの前に跪かせた。そしてモンフォールは剣を抜き、その刃を額に突きつけ、その老人に問う。
「さあ答えはいかに?」
老人は沈黙した。そして、その生涯において最大限の勇気を喉の奥から出そうとした時には、もう首が落ちていた。
モンフォールは剣を振るった手応えに満足した。「剣術の訓練も無駄ではなかったな」――その自己満足が消えるのに、そう時間はかからなかった。
その光景に村人たちは阿鼻叫喚した。次は兵士たちが銃口を向け、モンフォールの合図で引き金を引こうとする。しかし残忍な指揮官は一人の美しい女性を目にし、突然、計画を変更した。「功績だけでなく、娯楽も」という貪欲な発想である。
自らの剣で服を剥ぎ、そのまま縛り上げた。
「貴様のようなものには慰めの道具としての価値がある。帝国に歯向かう者がどうなるか、その目に焼き付けて反抗できないようにしてやる」
女性は恥ずかしさより恐怖心で体を震わせていた。
残忍な若い中尉は兵士に号令するために剣を振り上げた。この夜、彼の剣は随分と忙しい。
そしてそれが振り下ろされようとした、その時――
遠くから、馬蹄の音が聞こえた。
モンフォールは一瞬、聞き耳を立てた。「まさか、な」――その希望的観測は、見事に裏切られた。目の前の哀れな村人に目線を戻したその時、手に血が滴り暴虐の限りを尽くしたその刃は地に落ちていた。
正確には、手首ごと。
「ぎゃああああああ!」
モンフォールの悲鳴が夜空に響いた。先ほどまで高揚感に駆られていた若い中尉の瞳には、鷹の紋章の軍旗がはっきりと見えた。
「くそ、下賤な反乱軍め、もう来たか! 下賤な者同士、鼻はいいんだな!」
血を流しながら悪態をつく姿は、どこか滑稽だった。
後方に待機させていた騎兵が一斉に唸り声をあげ、一人の騎兵がモンフォールに耳打ちした。
「ファルケンハインです。これでは分が悪すぎます。見せしめに焼き討ちはできたのですから、ここは城に戻りましょう」
モンフォールは目の前の功績――と女――を手放したくなかったが、もう片手がないという現実には勝てなかった。泣く泣く引き下がることにした。しかし女を連れ去ろうと兵士に命じたとき、女は必死に抵抗し、モンフォールの動きを鈍らせた。片手では女一人も制御できないのだ。
若い中尉の堪忍袋は完全にはち切れた。怒りをあらわにし、自ら隠し持っていた火薬玉に火をつけ、村人たちに投げてしまった。
「せめて道連れだ!」
鋭い爆音が周囲に響き、同時に悲鳴と肉片が飛び散った。
何人かの帝国軍の兵士も巻き込まれてしまい、散々な結果であった。さらに爆風に紛れて女も姿をくらました。
「中尉殿、早く!」
部下に急かされ、モンフォールは片手で馬の手綱を掴んだ。昇進どころか、左遷が確定したような気がした。
鷹の旗が到着した時には、もう終わっていた。
少しだけ時間を戻すが、
緑の野より西方に広がる草原を、鷹の旗を掲げた軍団が駆けていた。「軍団」と呼ぶには若干人数が少ないが、気合いで補っている。
その小部隊の先頭には、大柄で鋭い眼光を持ち、傷がありながらも磨き上げられた胸甲を身につけた若い士官が、毛並みの整った栗毛の馬に跨り駆け抜けていた。その姿は先ほどの残忍な帝国軍の士官とは異なり、どこか英雄のような、騎士のような出立ちであった。ただし本人はそんなことを気にしている余裕はない。
そして、その鷹の紋章の騎士のような士官が全軍に行軍停止を命じると、一同の視線が若い士官を超えて、黒く天まで届く煙の柱に向いた。
「あれは…」
誰かが呟いた。嫌な予感は大抵当たるものだ。
鷹の紋章の騎士のような士官は、煙の柱を見た瞬間、全てを理解した。
「遅かったか」
二十三歳の青年の声には、怒りと疲労が混じっていた。そして若干の「またか」という諦めも。彼の隣で、副官のライネル・フォン・ベリクが全軍に行軍再開を告げる。
「行くぞ、ライネル」
「ああ」
二人の背後には、解放軍の胸甲騎兵五十騎余が続いた。この二小隊は偵察任務の帰路、彼らは煙を発見し、急行してきたのだ。運の悪い偵察任務である。いや、村人にとっては運が良かったのかもしれないが。
グリューネフェルト村に到着した騎士のような士官が見たものは、予想通りの光景だった。炎、悲鳴、そして帝国軍の旗。最悪の三点セットである。
ライネルはそれが帝国軍であることを鷹の軍旗の小部隊に告げる。正確には「また帝国軍です」と若干うんざりした口調で…
騎士のような士官は躊躇することなく剣を抜き叫んだ。
「行くぞ。周囲に敵影はないが、騒ぎが大きくなるとモルゲンロートから増援が来る。突入し敵を撤退させるぞ。我に続け!」
美しきリュミナス=シェルヴァの刃が、わずかに差し込む月の光に照らされて、まるで神々が祝福しているようだった。実際には単なる月光の反射だが、雰囲気は大事である。
そのころ村の方では、モンフォールが女に手をかけ、今にも村人の額に鉛玉をぶつけようとしていた。昇進への野心と欲望に駆られた彼は、完全に周囲への警戒を怠っていた。致命的なミスである。
彼の剣が振り下ろされるその時、別の刃が彼の手首を捉えていた。その刃は夜の闇を切り裂く月光のようだった。
正確無比。
モンフォールの剣は、手首もろとも地に落ちた。
「ぎゃああああああ!」
彼の悲鳴が夜空に響いた。先ほどまでの威厳はどこへやら、である。モンフォールは残った片手で馬の手綱を掴んだ。そして火薬玉を放ち、その場を去っていった。「戦術的撤退」と呼べば聞こえはいいが、要するに逃げたのだ。
「撤退だ! 撤退!」
モンフォールの叫びに、帝国兵たちは散り散りに逃げ始めた。統率もへったくれもない。
「待て!」
騎士のような士官は追いかけようとしたが、ライネルが腕を掴んだ。
「待て、生き残った村人たちを先に」
騎士のような士官は歯を食いしばった。ライネルの言う通りだった。追撃よりも、まず生存者の救出が優先だ。冷静な副官の存在は、ありがたいものである。
ライネルらが後衛として到着した時には、そこには肉片と焼け落ちた黒く悲しい空間が広がっていた。
だが――
村のほとんどは、すでに灰になっていた。
「また、間に合わなかった」
騎士のような士官の声は、重く沈んでいた。
二人の若い士官が戦乱の世の惨さに自らが押し潰されそうになっているその時、あの若い美しい女性――モンフォールが連れ去ろうとした女性が、よろめきながら近づいてきた。
「みんな殺された……あなたたちは私たちから何もかも奪うの?」
女性は騎士のような士官のことを帝国軍と間違えていた。無理もない。暗闇の中、軍服の区別などつかないのだ。
しかしその顔を見るや否や、すぐに自らの過ちに気づいた。
目の前にいるのは、冷酷な帝国軍の士官ではない。
鷹の紋章の騎士のような士官――傷ついた胸甲を身につけ、疲労と怒りを滲ませながらも、村人を救おうとした若者。
彼こそがテオドール・フォン・ファルケンハイン、エルヴァ人の希望であった。
「大丈夫だ」
テオドールは優しく言った。
「もう安全だ。俺たちが守る」
女性は、その言葉に初めて涙を流した。恐怖ではなく、安堵の涙だった。
ライネルは周囲を見回し、小声で呟いた。
「守るって言っても、村はもう…」
「ライネル」
テオドールは睨んだ。
「空気を読め」
「すまん」
ライネルは肩をすくめた。事実を指摘しただけなのだが、タイミングが悪かったようだ。




