魔法
入学してから1週間がたった。授業が始まり、学校生活にも少しずつ慣れてきた頃のこと。廊下を歩いていると、前から聞き覚えのある声がしてきた。
「リリー!久しぶり」
「お兄様!お久しぶりです!お元気でしたか?」
兄とはタイミングが合わず、家を出てからは初めての再会だった。制服姿の兄は、身内である私ですら一目置いてしまうほど堂々としていて、輝いて見えた。
「生徒会、お疲れ様です。お噂はかねがね……お兄様が一員であることを、とても誇りに思いますわ」
「ありがとう。といっても書記だから、さほど大変ではないよ」
学園の生徒会は、三年生の成績優秀者の中から選ばれる制度になっている。しかも、3人という限られた人数。中でも役職付きとなれば名誉なことだ。
「リリーも無理せず頑張るんだよ」
「はい。少しでも追いつけるように頑張ります!」
「リリー様ー! 次の授業が始まりますわよー!」
遠くでアンの呼ぶ声が聞こえる。
「次はなんの授業なんだい?」
「魔法……です」
そういうと優しく頭を撫でて安心させるように言った。
「実技が取れなくても筆記で点数取れれば留年はないと思うから、安心するといいよ」
「……がんばります」
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「──以上で説明は終わりです。ランクごとに分かれて、実際にやってみましょう。名前を呼んでいくので、返事をするように」
魔法の授業では、学生の力量に応じてランク分けされ、それぞれに適した指導が行われる。
……まあ、予想はしていたけれど、私はいちばん下のEランクだった。
アンハールやスージーはB、セシルは当然のようにA。皆、高位貴族にふさわしい実力を持ち、着実にその力を伸ばしている。
魔法にはランクがあり、下から
E、D、C、B、A、S、SS
魔法を使うほとんどの人がD〜Aランクで、Eは逆に珍しいぐらいだ。
Sランクはほんのひと握りしかいないため国が管理している。ほとんどが冒険者をしている。
SSランクは伝説級で今は存在が確認されていない。
魔法は鍛えれば鍛えるほど強くなっていく。
頑張れば頑張った分だけ量と質が良くなりランクも上がるため、元々低い人も諦めなくていいわけだ。
ランクが3つも上がったという例もある。
「今日も魔力を出す訓練から始めましょうか」
Eランク担当のアンリ先生は、とても穏やかで、一人一人に寄り添うような指導をしてくれる。それでも、私の手のひらはどうしても……震えてしまう。
「魔力を感じて、流してみて」
そう言われた瞬間、喉の奥がひどく乾いた。掌に集中しようとしただけなのに、冷たい汗が額を伝う。心が、固まってしまったように動けない。
────怖い。
なぜ、こんなにも恐ろしいのかわからないのに。
「リリー様、大丈夫ですか?」
先生が心配そうに声をかけてくれる。
「……だ、大丈夫です」
笑って返すけれど、手は小刻みに震えたままだ。目の前の炎の見本すら、直視できなかった。
(どうして……)
ミーシャは、炎を軽々と灯し、先生に褒められていた。アンも「ちょっとズレちゃったかしら!」と笑いながらも、確かな風魔法を使っている。
周りを見ても魔法を怖がっている人はいない。
私だけだ。
みんなそれぞれ自分の能力をあげている。
なのに、私は。
「また出せなかった……」
授業の終わりにぽつりと漏らすと、先生が静かに寄ってきた。
「もしかして、炎が……怖いのですか?」
「えっ……」
思わず顔をあげたけれど、先生の表情は変わらず優しい。
「いえ……違います。少し、緊張しているだけですわ」
笑顔で答えた。ほんのわずか、目をそらしてしまったのを、自分でもわかっていた。
休み時間。中庭で風に当たっていると、セシルが隣に腰掛けてきた。
「大丈夫ですか?顔色がよくありませんが……」
「平気よ。ありがとう。」
「無理しないでくださいね。たとえ誰になんと言われようともリリーはリリーのままでいいんですよ。婚約者が決まらないようでしたら僕のところに来てください。いつでも待ってますから。」
と軽く冗談を言って安心させてくれた。
「ええ……でもこれは乗り越えなければいけないことだから」
迷惑をかけるわけにはいかない。
そう言うと、セシルは何も言わずそばにいてくれた。
─────
あれは、まだ五歳の頃のことだった。
魔法がどういうものかも、怖さも知らなかったあの頃の私。
「今日は一日中、魔法の練習をしようと思います」
朝の食卓でそう告げた兄に、私は目を輝かせて言った。
「見てもいい? 魔法って、どんなふうに出るの?」
初めて見る魔法。
きっときれいで、不思議で、わくわくするものだと思っていた。
「じゃあ、火の魔法を見せてあげるよ。ちゃんと離れてるんだよ」
兄は笑いながら手を掲げると、小さく呟いた。
「ファイアボール」
次の瞬間、兄の手から生まれたのは、人の背丈ほどもある、真紅の炎。
それを的に向かって撃った。
炎の勢いは凄まじく的を破壊するほどの威力。
ゴウッという轟音とともに、炎が目の前をおおった。
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
全身が震え、息が苦しくなる。心臓がどくん、と強く脈打つ。
目の前にあるはずの炎は、ぼやけて、恐ろしい獣のように見えた。
焼かれる。怖い。逃げたい。
そんな言葉が頭の中をぐるぐると回って、足も動かず、声も出せなかった。
「お嬢様っ!」
異変に気づいたアリサが駆け寄ってきて、私はようやく正気に戻った。
その瞬間、涙が一気にあふれた。
「こわい……! いや……火、やだ……!」
手が震えていた。
それ以来だった。
私は「火」の魔法だけが、どうしてもダメになった。
水の魔法も、風の魔法も、光の魔法も平気。
兄や教師が使っても、少しも怖くない。
でも、火だけは違う。
その匂いも、熱も、色さえも――見るだけで、心が固まる。
「リリーは火に対してだけ、感覚が過敏ね」と母が言った。
なぜか分からない。
なぜか火が怖い。
まるでそれに命を奪われたことがあるような恐怖。
あの時見た炎が、私の中の「怖い」を初めて作った。
それだけのことだった。
私は魔法が嫌いなんじゃない。
ただ――火だけが、怖いのだ。
─────
次の日の朝、食堂で顔を合わせた兄が心配そうに言った。
「まだ火は怖いかい?」
怖い、怖いに決まってる。
あの真っ赤な炎を見るだけで吐き気がする。
でも、そんな弱音は吐いてはいけない。
いや、吐いている暇はない。
私は公爵令嬢。皆のお手本にならなければいけないから。
少しでも落ちこぼれではなくならなくては。
感情をコントロールしろ。
心を支配しろ。
押さえ込め。
恐怖など感じるな。
演じろ、笑顔で。
「そんなことないですよ」
不安など悟られぬように、これが今の私の精一杯だから。
「……そうか。何かあれば相談するんだよ」
それだけ言って去っていった。
これでいい、弱い姿を見られたくない。
涙なんか流さない。
悔しがらない。
興奮しない。
これは私のためでもあるのだ。
自分で自分を支配しろ。