アリサの時間
「お嬢様。朝です、起きてください」
そう声をかけるのが、毎朝のルーティンだ。
決まった時間に、決まった調子で、静かに。
お嬢様は目を覚ますと、時々歌を口ずさむ。
それは毎回、同じ旋律。けれど、何の歌かは本人もわからないらしい。
問いかけても「そんな歌、歌ってた?」と不思議そうに首をかしげる。
それでも、歌うたびに、決まって涙を流している。
理由も、意味も、わからぬままに。
この間など、「手紙は届くのに時間がかかるわね。すまほがあれば楽なのに」などと仰った。
“すまほ”──そんな言葉、私は聞いたこともない。
お嬢様ご本人も、どこで聞いたのか覚えていないという。
まるで夢の中で拾った記憶のように、不思議なことを時折こぼす。
──そして、火を見るたびに、お嬢様は小さく震える。
それは誰にも気づかれないほど微かな動きだけれど、私にはわかる。
あの時のお嬢様のことはいつまで経っても忘れられない。
魔法の適性検査のあと、ぽつりと呟いた
「……私、火なんだって」
どこか遠くて、冷たいその言葉。
それから、お嬢様は少しずつ変わっていった。
魔法を避けるようになり、何かを思い出すように、時折ぼんやりと虚空を見つめていた。
無理に笑う顔は、どこかぎこちない。
心からの笑顔──あれを見たのは、もうずいぶん前のことだ。
けれど、私はそばにいる。
それだけは変わらない。
私は、ずっと、そばにいると決めたのだ。
私は、貴族とは名ばかりの家に生まれた。
跡取りの兄ばかりが期待され、私はいつも、存在を忘れられていた。
使用人でさえ私をまともに扱わず、私はいつの間にか──声を出すことすら忘れていた。
魔力は弱く、得意なこともない。
学園では劣等生と呼ばれ、そして無口な私を、皆は嘲った。
「中途半端な存在」「無愛想」
そんな声にも、ただ黙って耐えていた。
それでも──お嬢様だけは違った。
嫁ぎ先もなく、アルベール家の使用人として迎えられた日のこと。
お嬢様は、初めて会った私の名前を呼んでくださった。
「アリサって言うのね。きれいな名前……素敵!」
そう言って、庭に案内され一輪の花を指さした。
「この花、“アリサ”って名前なの。あなたみたいで綺麗でしょ?」
淡い青色のその花は、どこか儚げで、それでいて、芯のある強さを秘めていた。
私がこんな花に似ているだなんて──家族にさえ言われたことのない言葉だった。
「あなたはこの花みたいに。……いいえ、この花よりも素敵な笑顔だわ」
その言葉に、私は自然と微笑んでいた。
気がつけば、声も出せるようになっていた。
お嬢様のそばにいると、不思議と、心が満たされるのだ。
あの頃のお嬢様は、天真爛漫で、おてんばで。
誰よりも明るく、誰よりも自由だった。
お嬢様が笑えば、周りも自然と笑う──まるで太陽のような方だった。
けれど今、変わってしまったお嬢様はそれでも前に進もうとしている。
最近、お嬢様が夜な夜な誰かとこっそり話していること、私知ってますよ。
お嬢様のあの楽しそうな姿、久しぶりに見ました。
あの時間がお嬢様にとってはかけがえない宝物なのであれば、私にそれを止める権利はございません。
私の幸せは貴方様の幸せですから。
誰にも言わない。
誰にも邪魔はさせない。
「アリサ、いつもありがとう。あなたがいてくれるだけで、私は幸せ者ね」
……ああ、本当にこの方は。
私のような者を「いてもいい」と言ってくださる。
「私もです、お嬢様」
たったそれだけの言葉に、私のすべての想いが詰まっていた。
──それでも、時々ふと思うのだ。
もし、お嬢様に出会わなければ、私は……
誰の目にも映らず、何も話さず、
ただ、ひとりで息をしていただけだった気がする。
いや、もう息もしていなかったかもしれない。
だから、私は感謝している。
差別された過去も、孤独も、劣等感も──
全部、お嬢様と出会えたことで救われたのだ。
お嬢様が前を向けるようになるまで、
心からの笑顔を取り戻せる日まで、
私はずっと、おそばにいます。
この想いは、誰にも奪えない。




