別れ
鈴の部屋の窓をそっと開けると、夜風がカーテンを揺らした。
そこにはもう、俺の姿に慣れた彼女がいて、まるで来るのを分かっていたかのように微笑んでいた。
「こんばんは。いらっしゃい。」
「ああ」
あれから、鈴の部屋を訪れるのが俺の日課みたいになった。
誰にも気づかれないように、警備員の目を盗んで庭を抜けて――
月明かりの中、俺たちは少しずつ距離を縮めていった。
最初はぎこちなかった会話も、今では自然にタメ口になっている。
まるで、壁だったはずの彼女の心が、少しずつ扉を開いていくように。
ベッドサイドを通り抜けて、バルコニーのドアをそっと開ける。
外は肌寒いが、不思議と心地よい。
校舎の灯りはすでに落ちていて、夜の世界には、風と虫の音だけが漂っていた。
「最近、夜の風が気持ちいいね」
鈴が柵にもたれ、空を見上げる。
ちょうどその時、月が雲の隙間から顔を出した。
「……こうしてると、不思議な気分になるな」
俺も隣に立ち、手すりに肘をかける。
沈黙の中、しばらく夜空を見つめていた。
やがて、俺は静かに口を開く。
「……俺には、相棒がいたんだ」
その声は、風の音にまぎれてしまいそうなほど小さかった。
「前にも言ってたわね。あの曲、レオとその人が作ったって」
鈴の横顔がちらりとこちらを向く。
「ああ。……そいつは、バカで……天才で……明るくて、うるさいくらいに前向きだった。
音楽が好きで、夢の話ばかりしててさ……」
夜の静けさに紛れて、胸の奥から記憶がにじみ出す。
あの笑顔も、あの声も、まだ耳に残っている。
「……いたってことは、今はもう……?」
鈴の声が少しだけ沈む。
俺は風の中に答えを流すように、目を閉じて言った。
「……でも、今も探してる。どこかにいる気がして、ずっと」
そう言いながら、隣にいる彼女を見た。
記憶を失っても、音を忘れても――きっと、辿り着けると信じている。
「……きっと、また会えるよ」
鈴がぽつりとつぶやく。
「そんな気がする」
――彼女はまだ気づいていない。思い出していない。
「……ああ。俺も、そう思う」
触れそうで、触れられない。けれど、それでいい。
いつか、この音が、君に届くその日まで。
────────
鈴と別れ、宿へ戻る帰り道。
あたりはすっかり暗く、街灯の灯りだけが頼りだった。
一人、歩きながら――俺は、あの日のことを思い出していた。
すべてが、終わったあの日のことを。
⸻
「鈴ー!! どこだ!!」
ショッピングモールの中は、まるで地獄だった。
逃げ惑う人々。崩れ落ちる天井。すべてを覆い尽くす炎と黒煙。
口元を袖で覆い、必死に名前を呼ぶが――声は、うまく通らない。
くそ……なんで、別行動なんてしたんだ。
こんなことになるなんて、思わなかったのに。
「……けて! 誰かっ! 熱い……!」
その声が、聞こえた瞬間。
全身に鳥肌が立った。
「鈴……?」
声は、瓦礫の向こう側からだった。
「怜央……?」
確か、あっちは火元の方だ。危険すぎる。
それでも――行かない選択肢なんて、あるはずがなかった。
どうすればいい……考えろ、考えろ……!
「聞いて、怜央……」
鈴の声が、小さく、震えていた。
泣いているのか、それとも苦しさからか。
その震えは、俺の心まで締めつけた。
「私ね……怜央と、音楽ができて……幸せだったよ」
「おい、鈴! 何言ってんだよ!」
「海外……行きたかったなぁ。世界に、私たちの音を届けたかった……。もっと、音楽やりたかった……」
「まだ助かる方法があるかもしれねぇだろ!? 勝手に締めくくるなよ、しっかりしろ!!」
瓦礫を必死に掻き分ける。
けれど、火と熱気で手が焼けるように痛い。
煙に目も霞み、鈴の姿は見えない。
「足が……挟まってて、動けないの。
頭も……ぼーっとしてきて……あついよ……」
「今、行くからな!絶対助けるから!!なぁ!!」
肺に残った空気を振り絞って、叫ぶ。
けれど、瓦礫はびくともしなかった。
そのときだった。
「怜央……」
かすかに聞こえた声の方へ、そっと手を伸ばす。
触れたのは、冷たくも熱くもない、ただの重い塊。
それでも――その向こうに、鈴がいる気がした。
まるで、瓦礫越しに手と手が触れ合っているような、不思議な感覚。
実際には何も触れていないのに、温度もぬくもりもないのに――
それでも、確かに“繋がっていた”。
「本当に…………幸せだった……」
「バカ野郎……お前……まだ死ぬなよ……!」
「……ありがとう。楽しかったよ、全部。音楽も、みんなも……怜央も……」
「鈴?鈴!!おい、答えろよ!!」
それを最後に、鈴の声が、途切れた。
「……嘘だろ……?」
目の前が真っ白になった。
返事をしてくれ。……お願いだ。
まだ、やりたいこと、たくさんあっただろ。
息が、苦しい。
頭が回らない。
視界が、にじんでいく。
これが、俺の最期か……?
まさか、火事で死ぬなんてな……
結局、父さんに認めてもらうこともできなかったな。
俺が死んだら、どんな顔するんだろうな……
いや、あの人はきっと――
興味なんて、ないか……
――神様。もし、本当にいるなら。
もう一度、鈴と……あいつらと、音楽ができますように――
⸻
「大丈夫ですか!?」
視界の端に、防火服の人影が飛び込んできた。
「こちら、要救助者1名発見! 一酸化炭素中毒の疑いあり!」
消防士たちの声が、遠くで響いている。
……俺なんかより、あいつを……
最後の力を振り絞り、瓦礫の向こう――
鈴のいた方角を、指さした。
「まさか……!」
「おい! こっちにも1人いるぞ!」
「新たに1名発見! 足を挟まれ、頭部に損傷のある少女を確認!」
「君!しっかり!意識を……!」
───こうして、一ノ瀬怜央としての人生は、終わりを迎えた。
⸻
「ーー次のニュースです。
昨日、大型ショッピングモールで発生した火災により、人気バンドRe:noteのメンバー4人が死亡したことが確認されました。」
⸻
そして――次に俺が目を覚ましたのは、
見たこともない、山に囲まれた世界だった。




