和泉と朔望団の意識
小さな地下の飲食店、薄い灯りの中、常軌を逸したエネルギーが爆発していた。
「同志諸君!社会の理不尽な虐げに対し、我々は常に充分な返答をしたはずだ!」
そうだ!と応じる聴衆。
「ところがどうだ!真実を語る者を!憲兵は拘束しておるではないか!!」
そうだ!の声が掻き消されるぐらいの轟音が鳴る。話者は、さらに熱を帯びる、酒を煽り飲んだグラスを壁にぶつける。
「志や!マナがなんだ!おかしいとは思わないか!!、皆同じ人類ではないのか!!!」
そうだ!怒号が飛ぶ、そうだ誰も自分が虐げられて良いと思って生きてない、尊厳という部分に人は過剰に反応する。己の存在意義、そこは触れてはいけない逆鱗なのだ。
それはわかる、和泉もそこは理解する。ただそれでも、この場の熱狂はどこかズレている。聴衆は肩を組み、アルコールに侵された脳が、内から告げる日々の鬱憤を各々が叫び散らす。具体性はなく、抽象的で議論というほどでもない水掛け論、ここぞばかりに普段、自分がいかに虐げられたかを自慢して、結局のところでどうするか、という感じの部分は声がデカい方に流れていく。
新兵でここにきた時はもうすこしマシだったような気がした。でも、言ってることはそんなに変わってないような、自分が歳をとっただけか。端に控える新兵の顔を見る、楽しんでいるのかそうでないのか、当時の自分もこんな顔してたかもしれないと、思い直す。ここでぐちぐち言ってるだけなら、まぁ大きなことは起こらないだろう。そう思い、会の酔いが増す前に帰ることにした。
その2日後、その会の一部が、件の彼の救出騒動を起こしたのだ、結果はもちろん失敗。素直な感想は、「馬鹿野郎」という怒り。その次は「理屈で考えたらわかるだろ」という諦め。そして最後は「何で言ってくれなかったんだ」という失望だった。
自分が判断できる情報が上がって来ない、繕われていただけだったのか、それとも別の意志があるのか。団の筆頭のはずなのに自分の組織のついての正しい情報がない、この事実は和泉にとって衝撃でしかなかった。
さらに不思議なことに、軍及び憲兵隊本部もこの騒動は、刑務の中の朔望団員の独断という判断をした。更に刑務憲兵の不手際に対して過度に配慮した結果となっており、極論を言えば有志の団体である朔望団というのは、軍の公式上では無いことになっているので、和泉はじめ朔望団幹部については誰も何らか処分を受ける事はなかった。
救出騒動の日の夜、不思議な会合に呼ばれた。参加者は朔望団の幹部ほぼ全てだ。和泉が席つくと隣の安藤がいう。
「我々の[威力偵察]によっても憲兵は何もして来なかった」
は?何故そうなる?あの救出騒動が?作戦の体をなしていなかったが?
続けて五十嵐がいう
「そうです、安藤さん、憲兵も我々の行動に賛成するしていると同義です」
安藤が返す。
「それは正しい認識だ、我々の行動が認めれられつつある。ということだ」
いやいやいや、おかしい。何が、何故か、その理解が追いつく前に次の言葉が発せられる。山形だ。
「軍本部も概ねその認識であります」
そんな訳ない、彼らの論拠を手持ちの情報から整理する。しかし、彼らに届く言葉にどう変換すればいいかわからない。ただ、間違いなくおかしい。
どうしたんですか和泉さん。朔望団幹部唯一の女性、川崎がいう。
「我々がついに立つ時が来たのです。」
言ってる意味がわからない、理解できない。
これが、朔望団の意識の片鱗なのか。
記憶が曖昧だが、どうやら会合は終わったようだ。
力の限り、一から十まで説明して喉がカラカラだ、大きく口を開けて話したからか、口周りから顎にかけての筋肉は痙攣している。左の横隔膜も痙攣している。どうやら人はやりすぎると横隔膜をつるらしい。初めて知った。
しかし、自分が何を言ったのか全て覚えている訳じゃないが、とにかく、このままではおかしな事になってしまう。それだけは避けねばならない。
全員が全員、あとは和泉さんがやるって言ってくれればいいんです、と言う。
良いわけない。君たちは何が見えてるんだ?
その夜、官舎に戻り、泥のように眠った。
ナガイの葬儀まであと、3週間もある。
翌日、和泉が所属する部隊にナガイ葬儀の際の警備命令が出た。当たり前だが、朔望団が非公認の組織であり、和泉自身は原隊では中隊長格にあった。
葬儀自体は、旅団本部で行い、その後骨壺を軍の墓地へ移送し、埋葬する流れとなっている。和泉が担当するのは、移送の部分であった。
仕掛けられたような配置、朔望団を抑えろという、軍及び憲兵隊本部からのメッセージ。
しかし、朔望団に取り憑いた意識たちはより、熱を上げて和泉に襲いかかるのであった。
意識に対して、正論で諭し、宥める、しかし、根本的な理解を得られるわけではなく、徒労感のみが増していく。
「何故ですか?」「逆に今がチャンスです」「我々を見捨てるのですか」
無理解と感情論だけで襲いかかる。悪い意味で理屈が通じない。
全員憲兵に突き出してやろうか、と何度も思ったが、意識が言う事に現地味がなく、どこまで本気なのか、自分でもわかりかねていた。絶対悪いはずなのに具体的にどうだ、となると、言葉が浮かばない、それくらい意識がいうことは現実味がなかった。
新月から月が満ちるまでを朔望という、だから我々は、その月が満ちるまで、努力を惜しまずに行動をする。というのが朔望団の基本理念であり、その行動は政治的なものではなく、現実に即したものであった。
いまマナがない者たちが置かれている現状。今は、マナがあれば人類は生きる上でのコストが激減する、マナは電力や石油に変わるものとして利用されているのだ。
そもそも、マナは100年ほど前に、人類の各人に宿るだけの使い道の少ない、生体エネルギーとして発見された。そこから、数十年前の革新的技術進歩(俗にいう「マナと生命の切り離し」)により、生命維持とは別次元のマナで既存のエネルギーに置き換えることが可能になって来た。
つまり、今はマナがあれば人類は生きる上でのコストが激減する、ということだ。
加えて、余ったマナの使い道も戦闘用途以外にあるわけでもないから、皆マナを使えるように特別な修練をする。というわけでもない。
そのおかげで、マナを持っているの大半の人たちは、自分たちが社会的コストを支払っているという認識も低く、それはマナを持たない者が持っている潜在的な危機感とは温度差があった。
その危機感とは人としての尊厳がどれだけあったとしても、マナ、社会に対するコストを支払っていない連中として扱われる。という可能性だった。
事実、マナを持たない者からすれば、自分たちは生存するためのコストを社会に依存している。マナがあればそう言ったエネルギーを維持する必要がなく、発電所や石油プラントなどは、徐々に縮小傾向にある。
少し過激な言い方をすれば、電力、石油、そう言ったエネルギーはもはや、このお荷物を生かすためという概念。それはもう過激な少数派という立ち位置を脱しようとしているところだった。
加えて、お荷物のために環境を破壊する必要があるのか、という考え方。
これは、マナ発見の時期から間を置かずに発生した、植物ミュータント、ヒトガタが猛威をふるったということが原因で、発生原因を環境汚染と安易に捉え、環境問題について過激な連中は、マナが無いものイコール環境破壊者と断罪する。幸いにして、マナがあれば食糧がいらないというわけではないから、過激な環境団体以外はその論点で攻撃する事はまだ少ない。
少しずつ押し寄せる社会変革の中で、マナがない者たちはは自分たちが生きる社会的コストを自分たちだけで払って生きていく局面にいる。その社会の中で課されるタスクを受け入れていくのが恭順派、受け入れずに出来ることをやって行こう、人に対してお荷物だ、という概念そのものの対して抗議しているのが行動派その中心にいるのが朔望団という事になっている。
最近は朔望団自体の活動に社会変革への抵抗勢力的なニュアンスが強くなっていた部分は和泉も正直に認めているところだった。
そもそも和泉自身は、社会活動よりも、自分たちも社会コストに依存しないように、マナの力を借りないでも生きていけるようにすべきとして、朔望団に入り邁進して今の地位になっている。ただ最近は社会活動や意識変革に向けての活動が活発化すればするほど、人も増え、数は力だという点で、和泉自身はその点について見逃していた。
ところが、社会変革に傾倒する集団にありがちな強烈な内省化、そこから生まれる選民的な仲間意識と歪な上下関係、それが、目指す理想に目が眩み、理想への現実的な手段は計算できないがゆえに、その証を記すだけで団に身を置くこととその酔狂さに溺れている者を生む、そう言った類いの者が増えるほど、安直に過激なこと言い出し、負けじとそれを実行してしまう者が出て来てしまう。
成功すれば革命、失敗すれば事件、それより大掛かりであれば乱と評される。今の朔望団は、やれたとしても小さな事件を起こす程度の集団に成り下がっていた。
こうなるだろうと思っていた部分もあった、でもそうはならないだろうという希望もあった、しかし、今は、自分が思っている以上に、意識に囚われている人間が多いようだ。
「さて、どうするかな」
まだ、大丈夫だ。まだやれる、根拠はないが、そういう気がする。出来る事から始めよう。和泉は今日もまた朔望団の会合に出向く。