29.美香先生
西園寺美香はゆっくりと自転車を漕ぎ、住宅街にある一軒家の前で止まった。夕方の街、西の空がオレンジ色に染まりつつある。
美香は門の前のインターフォンを押すと対応した女性に言った。
「西園寺でございます」
『いらっしゃい。さあどうぞ』
美香はその言葉を聞いてからゆっくりと門をくぐり家の中へと入って行く。
「美香先生、こんにちは!」
ドアを開けると小学生ぐらいの女の子が美香を迎えた。ツインテールのやんちゃそうな子。その隣に立つ母親が笑顔で言う。
「暑かったでしょ? さ、どうぞ」
「お邪魔致します」
美香はそう会釈して言うと靴を脱ぎ、小学生の女の子と一緒に部屋へと向かう。可愛らしい部屋。アニメか何かのキャラクターのグッズが置かれている。美香が言う。
「さあ、始めましょうか。宿題はちゃんと終わりましたか?」
「はい、先生!!」
美香は小学生の家庭教師のバイトをしていた。ほぼ毎日夕方に数名の子供達の勉強を見ている。バイトをする理由。それは簡単であった。
(今日はお給料日ですわ。久しぶりにちゃんとした物を買ってあげられますわね)
西園寺美香の家は裕福とは言えない家庭であった。もともと名家ではあったが、数代前に凋落。西園寺家の血は流れているものの父親が病死してからその生活は苦しくなる一方であった。
勉強が終わり、女の子が机から真新しいスマホを取り出し美香に見せながら言う。
「ねえ、美香先生。見て見て! スマホ買って貰ったの!! アドレス交換しようよ!!」
(スマホ……)
美香が固まる。スマホなど持っていない。今の家計でそんな贅沢品買えるはずがない。
「ごめんなさいね。わたくし、スマホは持っていませんの。お友達と連絡をする際は実際に会ってお話しするのが礼儀だと躾けられておりましてね」
「へえ~、さすが美香先生! 凄いね!!」
「いいえ、そんなことございませんわ。おーほほほっ!!」
引きつった顔で笑う美香。
その後母親から今月の家庭教師代を貰い自転車で帰宅する。聡明な彼女。もっとレベルの高い進学校にも行けたのだが、お金の掛からない公立で、自転車で通える高校は今の学校しかなかった。
ギギッ……
古いアパート。美香は自転車を止め、周りを確認してからゆっくりと二階の部屋へと入って行く。
「ただいま戻りましたわ」
美香の手には米や野菜。バイト帰りに買ってきた食材だ。
「お姉ちゃん、お帰り!!」
美香の帰りを待っていたのか妹達が笑顔で駆けて来る。美香が言う。
「お腹空きましたでしょ? さあ、今日は久しぶりにお米を炊きましょう」
「やったー!!」
母親は仕事に出ていて帰宅は遅い。美香は妹達の為に料理を作り始めた。
「やだ~、高橋先輩ったら~!!」
渡瀬鈴夏は、テニス部の部活で他の一年の女子と仲良く練習する高橋を椅子に座りながら見ていた。真央と別れてから更に高橋への依存が大きくなった鈴夏。テニスの練習も勉強も、もう彼無しでは生活が成り立たないところまで来ていた。
(最近、なんかちょっと変……)
以前は自分に対して熱心に接していてくれた高橋だが、最近はその熱量が下がって来ているように思える。真央と別れて付き合い始めた。そのすぐ直後の変化であった。
「高橋先輩」
堪り兼ねた鈴夏が立ち上がり、一年の女子に密着して指導する高橋の元へと歩み寄る。
「鈴夏?」
日に焼けた端正な顔立ち。切り揃えられた短髪。モテない方がおかしいスポーツマン。鈴夏が言う。
「私にも指導して貰えますか?」
ふたりが付き合っていることは高橋の希望で皆には伏せられている。明らかに不満そうな鈴夏に高橋が困った顔で答える。
「う~ん、ごめん。順番だから。ちょっと待っててくれる?」
指導を受けている女子部員が不服そうな視線を鈴夏に向ける。憧れの先輩。無論、テニス部内でも彼を狙っている女子は多い。
「分かりました……、ごめんなさい」
鈴夏が軽く頭を下げて椅子へと戻る。後輩へ楽しそうに指導する高橋。鈴夏はそれをぼんやりとひとり見つめた。




