17 アーメン
夜中。風なし。雲なし。満月が光り輝いている。私は彼を連れて、私を育てた我が家に帰宅した。誰にも望まれない、最後の”ただいま”と”いってきます”を言うために。
「覚悟はいいな?」
「うん」
もう二度と帰ることはないと思っていたが、もう一度だけ私は二人に会わなければならない。”さよなら”を言うために。ピンポンを押した。お母さんが出てきた。
「ただいま。久しぶり」
私は一世一代の作り笑いを浮かべて、友好的に接そうとした。お母さんは汗をダラダラとかいて、やがて絞り出したような声で言った。
「来ないで」
私のお祈りなんて、通じてなかった。二人がお互い慰め合うように体を重ね合わせていたことが、幼いながらに分かる。やっぱり、この人たちはダメだ。私は栞代わりに聖書に挟んでいたナイフを取り出した。
「おい。俺がやる」
彼は優しい人だから、全部自分でやろうとしていた。しかし、これは私の問題だ。優しい人になり損ねた失敗作の私が、全部やり遂げないと。
「さようなら。お母さん」
私はナイフを突き刺して、お母さんの腹を切り裂いた。二度と赤ちゃんなんてできないように。何度も何度も突き刺した。血が出て、腸が出て、子宮か何か分からないが袋のようなものが飛び出る。悲鳴がキーキーうるさかったけれど、それも最初のうちだけだった。今はただ粘度のある水音がするだけ。それでも、お父さんは起きてこない。リビングに行くと案の定、ビールの空き缶が転がっていて、ソファで変ないびきをかいていた。私はお父さんの方をゆすって起こす。
「お父さんただいま」
お父さんはピクッと体を震わせたが、起きてくる様子はない。仕方がない。もうお酒なんて飲めないよう、喉を掻っ切る。返り血が噴き出してきて、血がダラダラ流れた。安心できない。お母さんはもう私の元には出てこない。安心できる。お父さんは強い。もっと、切らなきゃ。足、目、耳、もっと。胸、腰、お腹、もっと。もっと、もっと。
「終わったんだ」
彼が私の肩にポンと手を触れてくれる。一瞬、彼の顔がお父さんと重なって、体中雷に打たれたみたいに動けなくなった。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。彼の眼に映っている私は、お父さんとお母さんだ。
「わたし、お姉ちゃんになれたかな?」
自分が口に出した言葉が要領を得ず、めちゃくちゃで、私は私を見失う。
「お前は立派なお姉ちゃんだ。赤ちゃんも、ありがとうって、言ってるよ」
真っ暗な部屋の中で、彼が頭を撫でてくれた。その手が妙に冷たい。
「次はずっと、ずっと一緒だよ」
彼が両手で私を抱き寄せてくれた。初めて、母親に抱かれる赤ん坊を思う。こんな気持ちなのだろうか。
「うん。ずっと、一緒。じゃあ、やろっか」
私達は冷蔵庫やストーブ、戸棚。あらゆる家具に油を巻き散らした。私の残念な思い出が、どんどん血と油で上書きされていく。
「はい、これ」
私は聖書を手渡す。彼は悲しそうに、しかし悟ったような目でそれを見つめた。
「神様のいない世界に行くんでしょ?じゃあ、初めにこれから捨てよう?」
「・・・ああ。そうだな」
彼は納得したように微笑み、聖書を手に取った瞬間、彼の右の掌から黒い炎に包まれて、発火した。初めて見た減少に困惑するどころか納得した。彼こそ私が待ち焦がれていたメシアなのだ。彼が両手で私の目を抱擁するような優しさで覆いかぶせた。
「目を閉じて。火に身を委ねるんだ。次に目を開けた時、俺達は生まれ変わって、同じ場所で目を覚ます」
「ねえ私、大好きだよ」
「俺もだ」
次の世界で目を覚ましたら、彼と何をしよう。火が私の服に燃え移ったのがわかる。皮膚を焼き、骨を焼き、変な臭いがした。この痛みに耐えれば、私は生まれ変われる。煙が立ち、まともに話すこともできなくなりそうだ。
「ねえ。次の世界にいったら何をする?」
返事がない。チリチリと燃える音がするだけだ。
「ねえ、返事をしてよ」
「お願い、返事して」
「ねえってば!お願い!ひとりにしないで!」
喉が痛い。大きな声を出しすぎたのと、煙を吸い込みすぎた。それに火がもう命に迫っている。これじゃ、馬鹿な一家心中じゃないか。生まれ変わっても、あの人達の子供に生まれる。呪われた運命の輪に轢き潰される。
「嘘つき」
もう何も信じない。
「おい!放せ!爾見!」
「ははは。そりゃ無理」
俺は爾見に掴まれ、部屋の外に出された。建物がドス黒い炎に包まれていく。
「寿命くれるって言うから、いろんな手配してやったのに、心中なんかされたらたまったっもんじゃねえよ」
カーキのスーツに身を包んだ骸骨が俺の顔を覗き込んだ。ないはずの眼球の位置にある虚から目を離せない引力を感じる。
「今すぐ、俺を部屋に戻せ。寿命なんか全部くれてやるから」
「そりゃ、無理だな。まだお願い事は二つしか聞いてないし、お前の寿命は半分残ってる」
俺が爾見にしたお願い事は、【俺と彼女が生きていける世界】と、【俺が生きている限り消えない火】。
「じゃあ・・・あの子を部屋の外に出せ。火傷もなく完璧に」
「ははは。無茶言うなよ」
「何が無茶なんだ?」
「もう死んでるよ」
その一言を聞いた途端、俺の力が抜けていくのを感じる。頭がクラクラする。
「ちゃんと見ろよ。お前が生きている限り、これから何人も人が死ぬ」
爾見がケラケラと笑った。俺は嘔吐した。
「そんなにへこむことはねえよ。二つ目のお願いはもう叶えてやったし、一つ目のお願いもすぐに叶う」
俺は爾見の方を見た。爾見の言葉に唯一、彼女との穏やかな生活の希望を見出したからである。爾見は俺の頭を撫でる。感触はないが、悪寒が頭から全身に伝わる。
「まあ、今日はうちに帰って寝ろよ。面白いことが起きるぜ」
黒い炎を眺めながら、爾見は笑う。神様は、本当にどうしようもなく、残酷な生き物だ。
『私の心はまっ逆さまに落ちることを恐れてあらゆる同意から離れていたのであり、この留保によって殺されていたのである』
アウグスティヌス 「告白」