16 神様
「私の話ね」
私はこれまでの人生を思い浮かべた。残念と形容するのがいい。その程度だ。私が話をしようとすると、雨が降って来た。橙色の空に浮かんだ白い雲が雑巾でも絞ったように小さな水滴がぽつぽつ落ちる。傘をさすほどのこともない。それでも彼は傘を差してくれる。
「傘は大丈夫」
「でも」
「冷たくないから。それに多分すぐやむよ」
そう言うと渋々彼は、傘を閉じた。
「私の話。私さ、みんな嫌いだったんだ。学校も家も、友達も先生も、お母さんもお父さんも、雨の日も晴れの日も皆嫌いだった。学校でいじめられたんだ。私の家貧乏だったから、お風呂も二日に一度はいればいい方で、みんなが私をからかって。仲間外れにされたり、物を隠されたり、先生も私の事、見ないふりして、いじめなんて気づいてないみたいな顔して。だから、何もかも嫌になって、本を読むようになったけど、なんだか嫌な夢を見るの。絵本だったら、皆が私の方に目を見開いて見つめるような。小説なら、皆が私を責め立てるような。だから、本を読むのも嫌になって、だから、私は何もせずにぼーっとするようになってね。友達の話も先生の話も聞かないようにした。返事もしなくなった。本当に植物みたいにただそこにいるだけ。雨の日は傘がなくなるとか。晴れの日は日焼け止めが亡くなるとか。そういう嫌な事を当然にして、なるべく考えないように、本当、空っぽでそこにいた」
彼はじっと私の話を聞いてくれた。目の話が出ると、目を伏せてくれた。
「大丈夫。あなたの眼は見れる。本当、綺麗な瞳」
そう言うと私の目を覗き込む。新品の鏡のように曇りのない目で私をみつめる。
「家に帰るといつでもお父さんがいて、ビールを飲んでタバコを吸ってた。じっと私の目を見て、時々私を殴った。会話もないのに、ただ殴ってきた。私も何にも言えずにただ殴られて。お母さんが帰ってくると、やっぱり私の目をじっと見て、料理を作ったらまずお父さんに持って行って、何か怒鳴られて帰ってくる。そしたら私には目もくれずに、お風呂に行く。私はお母さんがいなくなったら、ご飯を食べてそのまま寝て、それでまた、朝が来て学校に行く」
悲しい思い出のはずなのに、振り返って、口にしてみても涙ひとつでない。空っぽになった私に、血も涙も流れてはいない。植物と同じだ。
「ある日帰ってくると、お父さんがスーツを着ていた。私が帰って来ても、やっぱり会話なんてしなかったけど、その日は殴られなかった。お母さんは、ヘトヘトだったけど、料理を持って行ってから、二人の会話静かで、小さな笑い声が聞こえてきた。私には内緒で、二人で仲良くおしゃべり。私は一人でお風呂に入りながら、体が沈んで溺れそうだったのに。その次の日だったかな。私にお母さんが言ったの。あなたはお姉ちゃんになるのよって」
そう言ったお母さんの顔が思い出せない。満面の笑みだった気もするし、無表情だった気もする。
「・・・嫌だ!」
私は初めてお母さんに逆らった。
「嫌って何よ!あなたの弟なのよ!」
「弟が増えたらご飯はどうするの?お金だってたくさんかかって、また家がすぐボロボロになるでしょ」
「お父さんだって働くし、子供が変な心配しないの!」
「無理だよ!赤ちゃんが産まれたら毎日毎日泣くんでしょ。どうせすぐお酒飲んで、仕事できなくなるよ」
「自分の親になんて口きくの!」
「私が出来損ないだから次を作るの!?私が出来損ないならあんた達はなんなの!?次もきっと失敗する。私が産まれてから、いや、私が生まれる前から失敗しかしてないくせに、浮かれてはしゃいで情けない」
「黙れ!」
お母さんに初めて打たれた。それから、お父さんを呼びに行って、何度も何度も殴られた。でも、お母さんに打たれた最初の一発の方がよほど痛かった。私は私の弟を守らなきゃと思った。私はそれから毎日、お母さんとお父さん相手に喧嘩した。生まれてきちゃだめだ。この家に生まれてきちゃだめだ。何度も何度も神様にお祈りした。まだ名前もない弟がこんな汚い世界に落ちてきませんように、と。
「私は毎日お祈りした。そして、神様はそれをかなえてくれた。お母さんはあと一ヶ月ってところで、団地の階段で足を滑らせて階段から落ちた。私は先に階段を上っていたから、変な音がしてすぐに振り向いたんだと思う。お母さんは何十分も甲高い声で叫んで泣いて、私に死んだ赤子を見せた。本当に真っ赤で、人間になろうとしていた。お祈りをしてるみたいに手を重ねて。小さな小さな体で必死に産まれようとしていた。お母さんは私に起こってた。夢の中の絵本で見たみたいに怖い顔で、小説で呼んだみたいに私を責め立てた。私は綺麗だねって言った。そしたら、私をつまみ出して階段から落とした。二度と帰ってくるなって言われた。悪魔って言われたんだ。だから、私は帰れない。・・・私は、・・・私」
彼は私を抱きしめてくれた。そこまでされて、私は涙を流さない。
「軽蔑する?」
「しないよ。・・・お前は何も悪くない。・・・全部、そいつらのせいだ」
彼の言葉が私の心の絡まりを一つずつほどいていく。
「全部、全部、壊しに行こう。お前を呪う鎖全部壊して、次に行こう」
「次って?」
「次の世界。神様のいない世界にお前を連れ出す」
神様のいない世界。私には想像もつかない。でも、きっと、彼が隣にいれば私は生きていける。