13 望月
公園のベンチに座っていた。冷たい雨が頬を伝って、流れ落ちる。私は家に帰れない。お父さんにもう帰ってこなくていいと言われてしまった。私はベンチの下に、コートでくるんだ聖書を忍ばせて、このベンチの上で夜を越すことにした。空は、黒く冷たい。私を冷やすためだけに雨が降っているような気がする。黒い雲が白い雷を放って、ゴロゴロと雷鳴が響き、家の中にいる時よりも、何倍も強く私の体の中を揺らす。主よ私をお守りください。何度も祈る。何度も何度も。私の黒い空は何かに遮られた。黒い傘が私を覆った。私の隣に男が座った。男と言っても、私とそう変わらない背格好の男の子だ。その子は、私に傘をさしたまま、何も言わない。
「あの?」
私が声を掛けるとその子は、ちらっとこちらを見た。黒く細く、天使の輪のように艶のある髪が濡れて、前髪は目にかかっている。しかし、目元は私の想像とは全く違い、優しさなど微塵も感じられず、怒りに満ちた目だった。目に白い光が写っているのではなく、目そのものが黒く輝いているように見えた。その子は、声を発さなかった。
「帰らなくてもいいの?」
私が言うと、その子は、ギラリと輝くその目を伏せて、小さな声で言った。
「お前が帰らないなら、俺は帰らない」
困った。私はもう二度とあの家には帰れないのに、この子も道連れになってしまう。
「私のことはいいから。もう帰りなよ」
「お前は誰を待ってる?」
「・・・お母さん」
とっさに嘘を吐いてしまった。でも、迎えを待っているようには見えるだろう。
「嘘つくな。誰かが待ってるなら、座れなくても雨宿りできるところにいるはずだ。何か用事があったなら、鞄くらい持ってる。でも、お前はびしょ濡れの公園のベンチに座って、傘も鞄も持ってない。コートも着ずに、大事な物だけコートに包んで濡れないようにしてる。違うか?」
何もかも看破された。黒い炎の眼で見つめられて、私は嘘もつけない。
「正解。じゃあ、神様のお迎えかな」
彼は何も言わなくなってしまった。傘を持つ手だけは緩めず、私の隣に座った。
「一緒に行ってやる」
「え?」
「それなら、一緒に行こう。俺と」
じっと私を見つめる彼の眼は本気で、冗談を言うような表情じゃなかった。彼は左手を持ち上げ、それをゆっくり私の頭上に運ぶ。私は反射的に、身を仰け反らせてしまう。
「拒むな」
彼は私の頭を撫でる。優しく温かい手で、雨に濡れた私の髪を少しずつ梳かすように。
「大丈夫。もう大丈夫」
私は彼の左手を捕まえた。暖かくて、私より少しだけ大きな手。その手が、今まで触った何よりも暖かい。
「あたたかい」
彼は傘を持つ右手を下ろした。
「やんだ」
彼がそう言って、傘を下ろすと雨がやんでいた。奇跡のようだと思いながら、この雨がやめば彼は帰ってしまう。空に浮いたツキを睨んだ。私を冷やすために、雨を降らせ、彼を奪いに月を出す。手を変え品を変え、私を苦しめる。
「そんな顔するな。俺はどこにも行かない」
彼は初めて優しい顔を見せた。
炎は消え、彼の眼に月が宿る。
「満月だ」
彼がそう言っても、月なんて見なかった。今の彼の瞳より美しいものなどないと言い切れる。彼も私の目を除き続けてくれた。
「今日はもう寝よう」
彼が言うと、今まで蓄積した疲れが一気に現れ、私を眠りに誘った。
私はその日、夢を見た。真っ白い部屋で、真っ白のドレスを着た美しい黒髪の女の人が、白い折り紙を折っている。折られた鶴がその部屋を埋め尽くすように並んでいる。女の人は泣いていた。時々、手を合わせて、何かを祈っては、また鶴を折る。そんな夢だった。
「おはよう」
私が目を覚ますと、隣にはまだ彼がいた。心の底から安心した。昨日は最高の一日だったのに変な夢を見たせいで、彼がいなくなってしまったのではないかと不安だった。
「おはよう」
「おはよう。今日は何をする?」
一日の始まりにこんなに素敵な問いをされたのは初めてだった。何をするかなんて、選べたことなどなかった。朝起きた瞬間、私は私であることが確定し、何も選べないと思っていた。生まれ変わった気持ちがした。私は今日何をしよう。何でもいい。何にでもなれる気がするし、何でもできる気がする。
「何でもいいなぁ」
あなたがいれば。
馬鹿なことを言った。せっかく選べたのに。これは彼と私の最初の物語。次の満月までの、短いお話。