11 兄
「はっ」
嫌な夢だった。最悪の夢。でも、全部思い出せた。夢の通りなら今日バイトに行って、次にこいつに会いに来た時、こいつは目覚める。
「また後で」
俺はそう言ってバイトに出向いた。来る客も、ちょっとしたトラブルも、全部同じだった。俺は、できるだけ夢の通りに行動した。弟に早く会いたい。無事を確認したい。
「まだ生きてるか?」
「まあね」
低いがぼんやりした声。しばらく発声していないせいだろう。
「おはよう」
「おはよう」
「どっか出かけようぜ」
「・・・え?」
「いいからいいから」
俺は弟の手を取り、急いで病院を出ようとする。音を立てないように注意を払いながら、早歩きで手を繋いで病院から出る。日はまだまだ登りそうになかった。病院の正面出入り口を抜けても、夢の通りにはならなかった。
「良かった」
「良かった?」
弟が不思議そうに俺を見る。
「朝じゃなくて良かった」
「ちゃんと病状を確認して、堂々と退院したいけどね」
「そう言うなよ。お前が起きたら行きたい場所が山ほど出来たんだ。今すぐどっかに出かけたい気分だ」
思わず口角が上がってしまう。店長に頼み込んで今月分の給料を前借りさせてもらった。おかげで、ガソリンは満タンだ。もう、どこにでも行ける。
「その前に」
「ん?」
「そこのトイレで病院服脱いでけ」
「ええ。なんで?」
「似合ってねえ。それに病院服の奴連れまわしてたら、誘拐だと思われるだろ」
「ほぼそうだよ。替えの服は?」
「バイトの制服貸してやる」
弟はしぶしぶ、公衆トイレの個室に入り、俺のバイト服に着替えた。白いシャツに、黒いデニムパンツ。俺はこういうかっちりした、いわゆる清潔感~といった感じの服が嫌いだ。こういう服は弟の方が似合う。サイズも変わらなかった。俺は公衆トイレのゴミ箱に、病院服を捨てる。
「捨てちゃダメじゃない?」
「いいんだよ。病院に何百着あると思ってんだ。辛気臭い服なんか着るな。そっちの方が似合ってる」
「そういうもんかな?」
俺は頷くと、また弟の手を引いた。大の大人二人が手を繋いで歩いているのを街にいる連中は笑うだろうが、公衆トイレから病院の駐車場までの間、誰とも会わなかった。満月が黄色く、雲をマフラーみたいにまとっていた。星が見えない代わりに、瞬いては砕けるような点滅した黄信号が俺の浮ついた気分そのものだった。弟を俺の車に詰め込んだ。
「よっしゃ。ぶっ飛ばそうぜ」
「えっ、えええええええ」
車道は空いている。俺は何台か抜かしながらスピードを落とさずに走っている。警察もほとんど通らない田舎道を爆走した。
「楽しいな」
「兄ちゃんが楽しそうで何より」
左目だけ弟に視線を配る。最初こそ、スピードに困惑してグロッキーだったが、今はただニコニコと真っすぐ前を見据えている。
「聞かねえのか?」
「ん?」
間の抜けた顔をして俺に聞き返す。
「お前が寝てた間のこととか。俺のこととか」
「兄ちゃんは、生きるのが上手だから、どこでも上手くやってるでしょ?」
生きるのが上手。耳から入って鼻で笑った。昨日まで、俺は生きてすらいなかった。今日、息を吹き返したのは俺もお前も同じだろうに。
「もういい。よく考えりゃ、慌てる必要なんかねえよな。どこに行きたい?どこでも好きなところに行こうぜ」
「じゃあ、腹減ったから、ファミレス行きたい!」
ガキか。と思ったが、こいつの時間は止まったままなのか。俺は、アクセルを踏み直し、ファミレスに駐車する。ファミレスの席も空いていた。というか、俺達以外の客の姿がなかった。
「じゃあ、俺はハンバーグセット、ドリンクバーで」
弟は早々にメニューを決めると、ぼぉっと窓の外を見つめている。車道に面した窓からは時々通る車と、その先の真っ暗な海しか見えないのに、弟は熱心にそれを見続けている。
「俺も同じのでいいや」
タッチパネルを操作して、ハンバーグが運ばれてくるまでの間に、コーラで乾杯した。当然、俺は酒を飲めないが、弟はもう飲んでもいい歳だ。しかし、わざわざ言うのは野暮だろう。コーラで乾杯。母さんが父親に内緒で連れてきてくれたことを思い出す。その時は二人隣に並んで乾杯したな。ハンバーグはすぐに到着した。
「ロボット?」
「・・・ああ。そっか。見たことねえのか」
「ねえ、兄ちゃん。あんまり信じたくないけど・・・。俺達以外の人類って・・・」
「滅んでねえよ」
バカな会話をしながら食うハンバーグはまずまず人生最高に美味かった。
「兄ちゃん」
「ん?」
「深夜のファミレスっていいよね」
ちょっとだけはしゃいでいる弟。ちっとも変ってない。
「兄ちゃん」
「ん?」
「泣いてる」
自分の頬を伝う涙に、言われて初めて気が付いた。紙ナプキンで顔を拭いながら、弟に背中をさすってもらった。大丈夫だ、と言おうとして、言葉がうまく絞りだせないことに気が付いた。しばらく、背中をさすってようやく落ち着いてきた頃に。
「ごめん兄ちゃん。ちょっとトイレ」
弟は、慌ててファミレスのトイレに駆け込んでいった。しばらく待っても帰ってこないので、様子を見に入ってみると、鏡の前で手をついて泣いていた。
「もらい泣きか?」
本当ならさすってやるのがいいんだろう。でも、俺には悪態をつくことしかできなかった。
「もう生きられないんだよね」
俺は言葉を失ってしまう。弟が洗面台で血を吐き出していた。口元にベッタリ血がついている様子を見て、弟がよくハンバーグのソースを口につけていたことを不意に思い出した。俺が弟に駆け寄ろうとすると、左手を前に突き出して制した。俺と違って、はっきりと、大丈夫とそう言って。
「大丈夫じゃねえだろ。・・・いや、大丈夫だ。お前は目が覚めたんだから、この先いくらでも遊んでやれる。だから、お前がこんな風になる道理なんか・・・」
パニックになって、しどろもどろで何か言わなければと言葉を重ねるほど滅茶苦茶になった。
「報いだね」
あの悪夢が戻ってくる。血が出ている箇所が違うだけだった。
「あの日、父さんを刺し殺して、母さんも死んだんでしょ?兄ちゃんを一人にして。・・・それで今日、本当に兄ちゃんは一人になる」
弟は血を拭って
「目が覚めた瞬間、このまま死ねばよかったのにと思ったんだ」
俺は目一杯力を込めて、弟を殴った。吹き飛んで、トイレの戸が開いて、壁に頭を打っている。既に血が出ている弟にしていい仕打ちではなかったが、俺は足を進め弟の前髪をその下の頭蓋骨ごと掴むように握った。
「次言ったら、殺す。お前は俺を人殺しにはしねえよな」
しばらくの沈黙の後、弟はこくりとうなづいた。
「ならいい。もう行くぞ」
レジに店員がいなかったので、乱暴に食べた分のお金を叩きつけて、俺達は店を出た。そして、また爆走した。変な考えがよぎらないように、いかれたスピードに任せて、俺達はまたドライブする。病院に連れていこうと思わなかったわけではないが、無言のアイコンタクトでやめておいた。永久に近い時間が流れた気がした。二人とも口を開かず、長い時間をかけてようやく到着した。
「ここは?」
「俺のお気に入りだ」
たどり着いたのは、山だった。空気が澄んでいる。夜が終わろうとしている。空が少しずつ明るんで、星が消えかけている。
「綺麗だろ?」
「すごい。さっきまで雲りだったのに」
雲に追いつかれないように、風の流れと逆方向に走ってきて、快晴の夜空の下にたどり着けた。
「わー。本当にきれい。一つ一つ掴めそう」
弟は口を開けたまま星空を眺めていた。俺は車の窓を開け、そこに足をかけて、車のルーフに横たわる。
「お前も来い」
「うん」
弟の手を取って、車の上で二人で寝転がる。一緒の布団で寝た時を思い出した。五年と四か月と昨日の思い出だ。俺はポケットをまさぐって、煙草の箱とライターを取り出す。
「煙草吸うか?」
「・・・ん、一本だけ」
弟はやっぱりむせた。寝転がって、一服して、星を見た。綺麗な空気が台無しだ。でも、至福の一服だった。朝日が昇って来た。太陽を睨む。
「兄ちゃん。病院戻ろうか」
弟にそう言われて、なんとなく驚いた。このままどこまででも逃げ続けるつもりだった。登ってくる太陽より早く、西へ西へと走って行くつもりだった。
「ほら、ちゃんと治して。また来よう」
駄々をこねていたのは俺だった。これでは、まだ帰りたくないと地団駄を踏む子どもじゃないか。弟が俺の手を握ってくれる。
「帰ろう」
それから、病院に戻った。医者から、看護師から、警察から散々怒られた。だが、割とすぐに解放された。一番、俺を怒鳴りつけた警察が俺をすぐに署から連れ出して、弟の死に目に立ち会わせてくれた。目を覚ましていたのはあの日が最後で、それからの一週間は静かに目を瞑り続けていたらしい。
「最後まで、声を掛け続けてやれ」
それだけ言って、二人にしてくれた。俺は手を重ねて、弟に語り掛ける。
「おかえり。帰って来てくれて嬉しかった。またな」
心電図の音が最後にピーッと鳴って、弟が死んだ。最後に、呼吸器越しにあのあどけない顔で俺にはにかんだような気がした。すぐに、顔に白い布がかけられ、俺は泣き疲れて、弟に抱き着きながら眠っていた。
夢を見た。
俺は車好きが高じて個人のタクシードライバーになった。深夜。車を走らせる。誰よりも早く、目的地に着く最速のドライバー。イカれたスピードで走らせる。そんな俺につく客もイカれた奴らばかりだ。今日も客がコンコンと窓にノックする。
「三人なんだがいいか」
「後部座席に三人乗っていただくことになりますが、いいですか?」
俺に話しかけた奴の隣の男が、俺を睨んだ。
「この車四人乗りだろ。助手席は?」
「すみませんが」
「舐めてんのか。お前」
ただものではないであろう男達。服装や人相から、まともな奴ではないことが分かる。しかし、助手席だけは譲るわけにはいかない。
「いいよ。お前、荷台な」
「ええ!」
もう一人の小柄な男が、二人に膝を蹴られ、足と頭を持たれ、強引に荷台に詰められた。
「すみません。お詫びに料金は二人分で構いません」
「儲け。儲け。お前面白いな。お前の隣の奴も喜んでるよ」
一瞬、助手席の方を見る。白いシャツを着た気弱そうな男が頭を掻きながらはにかみ、笑っているような気がした。瞬きする間にそいつは消えた。
「何か見えるんですか?」
「その方がロマンチックなんだけどな。言ってみただけだ。でも、そいつのために空けてんだろ?特等席」
「・・・そう、かもしれません」
俺は車を走らせる。ぶっ飛ばして走っていれば、いつか思い出せるかもしれない。大切だったはずの誰かのことを。理由も分からず開けている助手席の訳を。