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妄百八物語  作者: 天鏡慧
10/18

10 弟

「はっ」

 寝汗が気持ち悪い。とりあえず掛け布団で顔を拭く。嫌な夢だった。とにかく、床に転がる空のペットボトルに洗面台の蛇口から水を入れる。一口飲むと、冷たい感触が喉を通過し、マシになる。しかし、僅かな心地よさは一瞬で、酒を飲んだ後のように、胃の中でそれを拒否する。洗面台の隣のトイレで吐き出すと喉がイガイガと痛んだ。夢の内容はどんどん朧になっていく。しかし、俺は何度も同じ悪夢を見ている。何度忘れても、こうも同じ夢ばかり見るといい加減覚えてくる。俺は夢の中で家族と食卓についていた。弟と一緒に、父親に目を付けられないように急いで食事をとる。すりガラス越しに、母親の頬が叩かれる音がして、必死で目をそらしていた。二人がすりガラスの向こうから出てくると、父親が煙草に火をつけ、白い煙が充満して、二人の顔はよく見えない。ガシャンとフォークとナイフが落ちた。その瞬間、煙が止み、二人がこちらを見た。母親がやっと解放されたと安堵したような顔をした。それに俺は酷く失望する。母はもう自分達を守る気はないのだ、と。しかし、その失望も随分的外れだ。俺だって母親が殴られたのを無視していたんだから。父親が俺に近づいてくる。ドスドスと足音を立てながら。

「お前が産まれた時、こうやって抱いたんだ」

 父親は俺を持ち上げた。椅子に座っていたはずの俺は、膝の裏と背中を両手で支えられ、宙に浮く。その時の感触が、その浮遊感が、安心のない抱擁が、俺にはたまらなく不快だった。

「仲直りしよう。な」

 俺は恐る恐る父親の顔を見ようと顔を上げた。宇宙人が喋っていた。俺を抱き上げていた男の顔は、鼻の頭を中心に十時に顔に切れ目が入り、蛸の口のようだった。

「助・・・けて」

 俺は弟の方を見た。そこで目が覚める。弟と俺がその後どうなったかは分からない。夢の続きを見ることができない。いつもここで目が覚めてしまう。無理やり目を瞑っていても、画面が暗転して、弟の顔は見えたことがない。俺は弟に会いに行くために家を飛び出す。金はないが毎日、弟に会いに行く。

「まだ生きてるか?」

 田舎の街の中にあり、病室の窓から樫の木の緑と、青空が見えた。

「暇だな。おい。早く目覚ませよ」

 俺は足を組み、太ももを視点に頬杖をした。いつものパターンだ。悪夢を見て、ジャラジャラと小銭を集めて病院にやってきては意味もなく話しかける。弟の命には時間制限がある。しかも、馬鹿なことに、弟はそんなことも知る由もなくのんびり眠っている。

「早く起きろよ。どっか遊びに行こうぜ。ちょっと前に免許取ったんだけど、誰も乗せてない。つか、車買ったらカツカツで、次の給料入るまでガソリンも入れられないから、電車で来てんの。余計金かかるけどな」

 俺は傍から見れば狂人なんだろうか。五年と四か月。弟が意識を失ってから、毎日だ。本当に毎日弟を見舞っている。弟の余命はあと一ヶ月だったか。それまでに目を覚まさなければ、眠ったまま死ぬ。腐臭がしないだけの死んだ人間を直視し続け、結果悪夢を見ている。

「早く起きろよ。お前が起きた時に思いっきり遊ぶ金だけは残してんだからな」

 俺はそのままバイトに向かった。バイト先の奴らは俺がやつれてきたと、勘付いているらしい。確かに最近、俺は赤い肉を買ってない。安く済む食材と賄いを食って生活している。バイトの帰り、病院に立ち寄った。面会時間は過ぎているが、顔パスだ。最初のうちは、弟を気遣う立派な兄だと持て囃してくれたものだが、毎日となると、もはや迷惑の段階を通り越して、そういうものだと受け入れていた。五年も目をつぶってもらっているのだ。もはや、顔パスの上。透明人間だろう。病室は真っ暗だった。窓の外から少し、橙色の光の粒が溢れ出している。

「まだ生きてるか?」

「まあね」

 俺は一瞬誰だと思った。その声は声変わりしていて、俺が知っている声じゃなかったからだ。しかし、確かにそのベッドから聞こえた。

「いつ、目覚めた?」

「さあ?でも暗かったからほんのちょっと前だよ」

「・・・目、覚めたんなら、医者なりナースなり呼ばなきゃダメだろ」

「それもそうだね」

 弟がナースコールを押そうとするのを慌てて止めた。

「どうしたの?兄ちゃん」

 今、こいつがナースコールを押したらダメだろ。ナースか医者が飛んできて、びっくりした顔で拍手喝采。その後は?医者が顔を歪ませ、あなたの寿命は一ヶ月です、か?ふざけるな。

「なあ、外行こうぜ」

「その方がダメでしょ」

「いいんだよ。退院するまで夜遊べないんだぜ。今日、今晩遊びに行こう。今日だけだ。お前が目を覚ました記念日なんだ」

 うーんと考え、弟はにぱっと笑った。

「しょうがない兄ちゃんだなぁ」

「よし行こう。歩けるか?」

 弟の手を取り、立ち上がらせる。弟は少しよろめき、倒れそうだったから手を繋いだまま歩いた。懐かしい。夢で見た俺達から随分成長したのに、変わっていない。手が大きくなって、腕が細くて儚くて、死にそうだ。俺は声を押し殺している。

 病院の外には簡単に出られた。受付の人たちは、もはや透明人間になった俺と、出歩いているはずのない弟を確かに見たはずなのに、ポカンとしていた。病院の正面出入り口から堂々と出て、綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「兄ちゃん。連れ出してくれてありがとう」

 まだ、火が登るには六時間はあったはずだ。弟の背後に太陽が昇り始めている。空が白んで、星を焼き殺すように登ってくる。弟のアキレス腱が千切れるように切れていき、血が流れている。五年ぶりにようやく立ち上がった弟は再び力なくうつ伏せに倒れた。

「何で。何が。何が起きてる」

「お迎えだよ」

「お迎えなわけねえだろ。お前が足から血を流して。なんで。何でだよ」

「報いかもね」

 夢の続きを思い出した。正確に言えば、あの夢のもとになったあの日を。

「助・・・けて」

 俺は弟の方を見た。弟は落としたナイフを持っていた。弟は両手が塞がった父親の足を何度も何度もナイフで切りつけた。その後、腹を切り裂いて、まだ生きて何かを叫んでいた父親の顔を十字に切り裂いた。

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