89.青年王は安寧の地へ
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金月も、もう終わる。秋は小さな嵐とともにやって来た。
晩から朝方にかけて、だいぶん風の吹いた日。昼の営業を終えて、もそもそと賄いを食べた店長のダンは、旧アリエ邸……もとい“金色のひまわり亭”の外装が傷んでいないか、確かめないとー……と思い立つ。
そうして外に出かけた時、玄関脇の小部屋の扉が、うすーく開いているのに気づいた。のぞき込んで、高ーいところにある頭を傾げる。
「どうかしたのかえ? 大将……おや」
その後ろ、通りかかったナイアル母がひょいと見て、やはり同様に小首をかしげた。
今のところ全く出番はないが、いつか悪天時に客の行列ができた時のため、待合として使う予定の元・第一応接室である。
年代ものの布張り安楽椅子や長椅子を置いてあるのだが、その一つに女将のエリンが深く座り込み、目を閉じている。
「お姫さま? 大丈夫かえ……?」
そうっと言いつつ近寄るナイアル母のうしろ、ダンもそろそろついていった。どこか悪くて倒れ伏しているのか、と二人は訝しむ。ほんの半年前、瀕死の重傷を負って冷たくなったエリンの介抱をしただけに、ダンはずーんと不安を感じる。
……しかしテルポシエの元女王は、平和に寝ているだけだった。
でっかい店長はかがみ込んで、ずり落ちかけていた深緑色の毛糸編み肩掛けを直し、エリンの首元までを覆ってやる。
ナイアル母と顔を見合わせて肩をすくめ、足音を立てずに応接室を出た。
「……ゆうべは風が強かったしね。よく寝られなかったのかもしれないよ」
ナイアル母はダンに何気なく言ったけれど、こうして深く眠るエリンを見るのは三度目だった。おとついと、先週と。百戦錬磨の“紅てがら”前おかみは、いよいよ確信を持つ。
その辺なんとも思わぬ死神店長は、ナイアル母に向かってうなづく。音を立てないよう、重い玄関扉をゆっくり開けて出て行った。
ナイアル母は、小卓の上の硬筆立てを直し、墨がたれていないかよく確かめてから、開いて置かれた芳名帳に目を向ける。
“おいしい”
“また来る”
ごくごく短い感想とともに、名を残してくれた人たちのことを思い出して、副店長の母は翠の瞳をぎょろっと見開き、にっと口角を上げて微笑んだ。
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風と嵐とが遠く東へ去って、いま穏やかに晴れ間ののぞく裏庭。
ビセンテとナイアルが大籠を四つ、林檎の木の下に持ってきて置いたところである。
「あーあ、やっぱりずいぶん落っこっちまって。……仕方ねぇ、俺はこっち側から拾っていくから……お前はそっちな。ビセンテ」
料理人に頼まれて、風に落ちた紅い果実を集め始めた二人だった。
「あからさまに傷付いてるやつと、大丈夫なのは分けるんだぞー?」
副店長の言葉に、獣人は麦わら帽子の下でうなづいた。
うなづきつつ、そのあからさまに傷の入っている一つを、ビセンテはばりっと噛んだ。しゃくしゃくしゃく……。
「……まだ、酸っぱいんでないかい? これ」
ナイアルの声が問うてくる。
「あと十日は待たないと、食べごろにはならないよ。本収穫はもうちょい先だよね?」
しゃくしゃく、咀嚼しながらビセンテは、大樹の根もとを挟んで向こう側にしゃがんでいるナイアルに目を向けた。
来やがったな、と思う。
「これを集めて……いったいどうすんのかね、アンリは」
拾った一つをしげしげと手の中に眺め見てから、ナイアルの中にいるやつはビセンテをまっすぐ見た。
「……あのさ。俺、そろそろ行こうと思うんだ」
何気なく平らかな調子、しかし少しだけ思い切ったような調子で、そいつは続ける。
どこへと思いかけて、ビセンテはぎゅっと胸さわぎをおぼえた。
ナイアルに……いや、ナイアルの中に入っているやつにむかって、ぎいん! と蒼いがんを飛ばす。




