88.やどり木を証人に
「ナイアル君て、お嫁さんもらわないの?」
ぐはっ! いきなり差し込まれた質問に、ナイアルは思わず上半身の均衡を崩す。林檎の樹の枝からずり落ちかけて、危うくとどまった。
「……。もらわないんでなくって、もらえんのよ。俺っちは」
「どうして?」
見上げてくるまなざしは、ふざけてなんかいない。とことんまじめな少女の面持ちに、副店長はやはり真面目に回答することにした。突飛な話題の移り変わりは、そのへん子どもゆえ、と判断している。
「ほれ、俺にはマリエル姉ちゃんがいて、乾物商“紅てがら”の女将をやっているだろう? 次の跡継ぎはその娘のリリエルと決まってるからな。俺が嫁さんをもらって、“紅てがら”に住み続けるってことはできんのだ」
これはテルポシエ北区の旧い商家で、大いにまかり通っている慣習であった。
宅地面積が限られて、大所帯がひとところに住みにくいという環境要因もある。たいてい跡継ぎ以外の子ども達は、婿あるいは嫁として、実家を離れるのが一般的なのだ。その一方で離れた先から実家へ勤めに通うのも、都市部のイリー庶民のあいだではごく普通にあることだった。
「ポンカンナや、フォレン村とは違うのね」
「うん。この辺はテルポシエ下町ならではの決まりごとだな。だから俺は、独身でいる限りは実家の“紅てがら”で寝起きできる。しかし結婚するとなれば、どこかのお店のお嬢さんに、もらってもらうより他に道はない……。 ……」
……自分で言いながら、その内容にずどーんと気落ちしてゆくナイアルである。
テルポシエ基準のお婿ゆき適齢期をとっくに過ぎ、とうの立ちまくっている、言わば売れ残りである。こりゃもう一生、“紅てがら”の納戸住まいで終わるしかないのだろうか、と不安にかられる瞬間がたびたびあるのだ。
暗くよどみかけたナイアルの隣で、ミオナはひとり納得したように、ふんふんとうなづいた。
「……それじゃあ、例えば。わたしがお父ちゃんのお店を分けてもらって、“ヴィヒル蜜煮”のテルポシエ支店を、どーんと構えたら……。そしたらナイアル君、安心してお婿に来れるね?」
何でもないように言ってくる娘の顔を、ナイアルはぽかんとして見下ろした。
次いで、くくっと不敵に笑う。
「……めちゃくちゃ良いな、その案? そうだなミオナ、ぜひともでっかい店を……。“ヴィヒル蜜煮・テルポシエ市内店”を、立ちあげてだな。でもって俺っちを、もらってくんな!」
「うん、そうしよう」
うんうんうなづくミオナを見て、ナイアルは今度は自分が爆泣しそうになった。
――か~~!! 何つう、心根のやさしい子だっっ。
「そいじゃわたしは、お父ちゃんの蜜煮屋と、ここの“金色のひまわり亭”と、あと“紅てがら”と……。お手伝いを続けて、勉強して、がんばろう。大っきなお店を繁盛させて、ナイアル君をお迎えに来るよ」
「そうだそうだ、そうしてくれ」
朗らか調子で二人は話しうなづいて、そして林檎の樹から降りかける。
先にナイアルがひょいと跳び下り、ミオナに向けて両腕をのばす。
一瞬ためらってから、ミオナはそこへどさりと飛びこんだ。
……と言っても、まだまだ軽い存在である。ミオナを胸に抱きとめつつ、ナイアルは内心で嬉し泣きにむせびまくっていた。
――お前はほんとに、良いやつだー。すぐに忘れちまうんだろうけどよう、子ども心にも不憫なる俺っちを救ってくれようとは、もう嬉しくてたまんねーっつのー。ああ感動。
両腕でぎゅうと抱きついたその瞬間、ミオナはナイアルの右耳に唇をくっつけた。
ちょっとだけ、彼にも自分にもわからないくらいのささやかさで。
そうして胸の中では、ぎりぎりと決意をかためた、頭上にいるやどり木に向けて誓った。
――この夢は絶対に、かなえてみせるから。




