80.やっぱり飛んできた、スターシステム
アンリは青ざめ、その頬からてかりが消える。
長靴のふちに迫り始めた水に、料理人は恐怖すら感じ始めてうめいた。
「ううっ、アンリ絶対絶命……!!」
『大丈夫よ~~!!』
その時である。はるか上空から舟上に舞い降りたものを、岸辺のビセンテだけが見た。
小さな手が、半ば沈みかけた小舟の船首をがっちりと掴む。力強く羽ばたく巨大な翼にひかれ、舟はそろそろと岸に近寄って行った。
「えっ……あれ? あれれー??」
「んもう、しょうがないッ。俺が泳いで回収に行くよッ」
「靴も脱いでけ、靴もッ。大将すんません、その辺で火ぃ起こしてもらっていいすかー、……て。あれ?」
革鎧を脱ぎかけたイスタとナイアルの間をするッと通り抜けて、ダンが寄ってきた小舟の舳先に、そうっと長槍をのばす。すでに石突に取り付けていた、黒曜石製の死神鎌……その実は特大しつけべらである……を引っかけている。
紫と白のえりかの花が茂る川辺に、すとんと小舟はくっついた。
『ほら降りて、早く早く』
駆け寄ったビセンテが、アンリの腕からリオナを抱き取る。料理人は長靴をじゃぶつかせて、ようやく陸へのぼってきた。
『はい、それじゃ放すわよー。……ん? あら、大将はこの舟がほしいのかしら?』
ダンは浸水しまくった小舟を、ずるりと岸辺に引っ張り上げた。
「リオナ! 無事だな!?」
ビセンテが地面に下ろした少女に、ナイアルは駆け寄って声をかける。
しかし、もしゃもしゃ暗色髪の娘はぴくりともしない。平和な顔で、ふうすかと規則正しい寝息をたてている……。
『ふうむ。その子がさらわれて、皆で助けた……って感じのお話かしらね? ビセンテ?』
そうーっと肘に触れながら、黒羽の女神は獣人を見上げた。
『見たとこ深く眠っているだけだから、何も心配いらないわ。あなた達、また人助けしてたの?』
ビセンテはうなづいて、親愛なる“羽ばばあ”の小っさい手をぎゅうと握って離した。牙を……ちがった、犬歯をむく。笑っているのである。
『わたし、ひまだったからね。お昼たべた後に、ちょっと飛んでたのよ。ファダン辺境あたりで、何だか知ってる声が呼んでる気がして……。もしかして、って来てみたらやっぱりアンリ君だったわ!』
女神はふよよんと浮いて、アンリのそばへ行く。
料理人は脱いだ長靴をさかさにして、中に入った水をぶんぶんと切ってるところである。
「あはッ、さすが俺ー! すてきなあんばいに風が吹いてくれるなんて、ほんとついてます! 黒羽の女神さまの、大強運がついてまーす!!」
ぺかーッ! 言いながら、頬をもも色にてからせた。
『そういうことよー。帰ったら長靴はちゃんと乾かすのよ、でないと臭くなるわよ』
寝た子を無理にも起こすかどうかためらう副長は、リオナの耳に何かが押し込まれているのに気づいた。
「なんだ……リオナのやつ、耳栓してるぞ。さらった奴らにつけられたんかな」
隣でイスタが肩をすくめる。
「もう、そのまま連れてきゃいいんじゃない? 敵の二人は、溺れたんだか流れちゃったんだか知らないけど……。早くアランさんと合流して、とにかくフォレン村に帰ろうよ」
「そうだな。……む?」
何となく、身のまわりにもふついた感覚をおぼえて、ナイアルは一瞬ぴしっと固まった。
――森の精霊だろうか!? ……いや違う、妖精じんましんが出ていない……。
「……イスタの言う通りだ。とっとと退却しよう」
「リオナちゃんは俺がおんぶするよ。……あれ? ダン、その小舟持って行くつもりなの?」
ひっくり返して水を出した皮製の小舟を手に、死神隊長は一瞬イスタを見てにっと笑った。こわい。
「そうですね、行きましょう帰りましょう! ビセンテさん、お疲れさまです! ……えっ? ああ、お腹すいたんですね、はいはいはい!」
料理人の外套内側隠しから取り出され渡されたそのするめを、ビセンテは振り返って黒羽の女神に差し出した。
『いいの? ありがとう』
でかい獣人と、ばかでかい黒羽の真ん中の小っさい女神とは、あたたかく抱き合った。
『じゃあね。またミルドレを連れて、お店へ遊びに行くからねー!』
笑顔で宙たかく浮き上がり、巨大な翼を力強く羽ばたかせて行ってしまう女神。
それを薄い水色の空のかなたに見送ってから、ビセンテはくるりときびすを返した。
先頭をゆくナイアル、娘をおぶったイスタ、いつも通りに平鍋を背にくくりつけたアンリ、戦利品の携帯小舟をずるずる引きずってゆくダンの後ろ姿にむかって、しなやかに走り出す。
・ ・ ・ ・ ・
『うふふ、大好きな“第十三”の皆に、また会えちゃったわ! なんて幸運』
早くもファダン・ガーティンロー国境の森林地帯の上空を通過しながら、黒羽の女神は空中で顔をゆるめている。ビセンテ以外の者には見ることも聞くこともできない存在だが、それでも“第十三”はかの女のお気に入りである。
調子にのって、女神はぐんぐん速度をあげた。巨大な翼が空気を切り、風の速度で雲を流れ裂いてゆく。
テルポシエの西端から内陸フィングラスの奥地まで、人間なら馬を飛ばして数日かかるところでも、かの女ならば一直線にひとっ飛びだ。本気を出せば、一刻とかからない。
『干しいかのお供えなんて、久しぶりだわ!』
飛びながら、ビセンテにもらったするめを噛む。
『あらー、おいひーい!! いかしたいかね、……生ぬるいお酒がほしいわ』
イリー人は一般的に、のめない人・弱い人ばかりである。しかしその守護神はそうでもなかった、案外いける口なのかもしれない……。
げそをもぐもぐ噛みながら、女神は青々と連なるフィングラスの山々……その先のキヴァン山地に向けて、飛んでいった。
かの女の伴侶、不滅のお供え騎士ミルドレは現在その一隅にて、山ごもり修行の真っ最中なのである。




