54.お習字けいこの後に
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「うむ、なかなかいいぞミオナ。きれいに並んで、読みやすい退職届だ。堂々としていて、“一身上の都合”にも後ろめたさを感じない。この調子で続けるんだぞ」
「うん。でもどうしても、右肩上がりになっちゃうの」
薄く蜂蜜をといたおぶう(ぬるく冷ました白湯のことを、この家ではこう呼ぶ)をすすりながら、娘は言った。
「右向けのはねが、へただから」
テルポシエ北区の老舗乾物商、“紅てがら”のお台所である。
中心でんと据えられた、年季の入った食卓の隅に座っておやつをもらうミオナの脇、ナイアルは分厚い半布の束を丹念にめくって見ていた。
かつて自分が通っていた近所の習字教室、今そこへ通うミオナの本日の成果である。
「先生に、そう言われたの? ……下手、って」
反対側の食卓角から手を伸ばし、皿の中の規格外・干し林檎……箱の底で小さく砕けてしまったやつを、つまみ取って口に運ぶのは、“紅てがら”次期女将。ナイアルの姪のリリエルである。
「……そうじゃなくて。ただ右はねに引っ張られちゃってるねぇって、言われただけなんだけど」
「だよね。あのミオコ先生が、そんなこと言うわけないよ。ミオナちゃんのはねは、下手なんかでないよ」
叔父そっくりの翠の瞳をまるくして、リリエルは笑う。
「でも、知らずに変な方向へ行っちゃうんだもの。それ、はねがへたってことでしょ?」
「いーや。ただの癖だよ」
言いつつナイアルは、走り書き用に壺に立てて常備してある食卓上の硬筆を手にすると、問題のつづり行間にいくつか単語を書き入れた。
「お前の年だと、ミオコ先生は特に量を書かせるからな。ついつい速さに乗っちまって、全体が見えにくくなるのは自然なことだ。フォレンの家に帰って宿題やる時は、はじめの一枚にちーっっとゆっくり時間をかけて書いてみろ。気をつけるだけで、全然違ってくるから」
「そうする」
ナイアルが入れてくれた修正の書き込みを、ミオナはじーっと見てからふと顔を上げた。
「リリちゃんの級になると、あんまりたくさんは書かなくなるの?」
「うーん、場合によるかな。速記の時は、一刻に三十枚は超えないといけないけど……。似せ字だと、半刻に二・三枚でいいってなるしね」
十七になるリリエルは、同じ教室の上級に通っている。
「つうかお前も、そろそろお稽古の時間でないのか」
「おっと。それじゃあ仕度して、行ってきます……ミオナちゃん、またね」
ひょいっと台所を出てゆくリリエルの後ろ姿を、ミオナは目で追った。
ナイアルとおんなし顔をしているから、気心かるく話せる。けれど山奥育ちのミオナにとって、リリエルはどうしたってまぶしい都会のお姉さんだった。あんな風にあかぬけたい、と思っている。
……憧れるのは簡単だ。いまの自分と見比べて、そのへだたりの大きさに、ミオナの喉からはいつだって溜息が出た。




