40.ビセンテ、奇跡の鼻追跡
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「……さっきも言ったが、うちの工房でかくまっているのは、全く身寄りも伝手もない、追われるばっかりの人たちだ。イリー語がおぼつかなかったり、子どもを連れていて身軽に動けなかったりする」
闇の降り始めた森間の小道、先ほど通ってきたのとはまた別の道を、ぐんぐん進みながらイームが言った。アンリと違って、方向感覚は確かであるらしい。
「テルポシエやファダンの山あいには、流入民が作った村もあるらしいが。そういうところには、北部からの奴隷連れ戻し代行業者もたくさんたかるからな。どうしたって危険と背中あわせなんだと」
「ま~、それでデリアドやフィングラスまでは追っかけてこねぇと、皆思って逃げて来るんかね」
ナイアルの父が、相槌をうっている。
「人間より牛や羊のほうが多いって位の、森々したところだからな。ここら辺は」
「あたしもうちの人も、そう思ったさ。けどな、結局どこにも安全な場所なんぞありゃしないのだ。……アンリちゃんたち、トープランの町を通って来たのだろ?」
「そうだよ。そこの食堂の人に話をきいて」
「あそこの町も、ここ一年ですっかり様子が変わってしまった。北部商人とぐるになって連れ戻し役をやってる東部系の男達と、デリアド騎士分団に追っ払われてきたごろつき共が、張り合っているようだ」
「……面倒くせぇ事態だな」
ナイアルは顔をしかめた。今回消えてしまったスターファという若い母親は、ほんのひと月前に息子を連れて、そのトープランの町にいたところを保護したのだそうだ。
スターファは奴隷として長く暮らした北方から脱出し、ファダンの流入民集落に暮らして子どもを得たが、夫の暴力に耐えかねてそこを飛び出しのだという。その後こんな所まで来て、途方に暮れていたらしい。
ようやく念願のイリー市民籍申請をするというところで、奴隷商人とその息のかかった輩にさらわれてしまうとは!
――ほんっっと、めんど臭。正直なところ放っときたい他人事なんだけど……。
森の中をゆく一行の最後尾にて、ついてく専門の隊長ダンは、左のまゆ毛付け根をごしごしと指でしごいた。
――めし係のいとこが困ってんなら、仕方ない……。ま、いっか……。
蜜煮工房の上階で仮眠を取り、船酔い分の損害を取り戻せたダンは、わりと気分爽快なのだった。揉み療治師であるビセンテ母の治療のおかげで、最近はこむら返りの心配もない。
その脇を歩くビセンテも、隊長・ナイアル父同様、仮眠できていたので問題はなかった。相変わらずのぶっちょう面である。
工房に残してきた二つの巨大鍋、その底に鎮座しているはずのがちょうの骨を得るためには、どうしたって料理人の厄介ごと解決を手伝わにゃならん、と言うことを獣人は心得ていた。
……その獣人ビセンテの嗅覚が、妙な気配をとらえた。
「……」
ふいと立ち止まり、ダンに追い越される。
「どうした、ビセンテ? ……」
隊長が気付き、次いで前を進んでいたナイアル父子、アンリとイームも足を止めた。
「……臭ぇのが、たくさんいる」
「どっちだ? ビセンテ」
近寄って来たナイアルに、獣人はあごをしゃくって見せた。南方向。
「……? すごいな、ろん毛兄ちゃんは遠くの人のことがわかるのか?」
感心しつつも、イームはいぶかしげである。
「けど、南って……? 確かにこの先には分岐点があるんだが、うちの人たちが行ったのは北側の町だ。奴隷商人どもにしたって、北向きフィングラス方面から山間街道に入ると思うぞ?」
「イームちゃん、この人の毛先は信頼できるんだ」
いとこの腕をそっと触って、アンリは言った。いや毛先以外も信頼してやれ。
「ビセンテさん。今回は、どんな感じに臭いのです? たばこか、加齢臭ですか。あるいは乳糖不耐で、お腹膨張しちゃってる感じ?」
「……さけ」
「何だ、酔っ払いが野宿してるだけなんじゃねえの?」
「いや……静かに、父ちゃん。ビセンテ、何の酒だ? 麦で作った黒泡酒か、蜂蜜酒か」
「……りんご」
ビセンテは目尻にしわを寄せ、やや吐き捨てるように言った。不愉快そうである。
ナイアルはぎょろ目をぎらっと光らせて、イームをふり返った。
「……その分岐点で、南に下ってみよう。たしかに臭う」
「えー、何で?」
「イームちゃん、我々イリー人はほとんど飲めない性質じゃないか。こんな森の中で、強いりんご蒸留酒を飲むわけがない」
「うあ、そうか! つまり飲んべえの北の奴らが、いっぱいいるということだな!?」
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ビセンテの鼻が察知した通り、やがて南むきの細い道上に、何者かが休憩をしていった跡が見つかった。
草むらの途切れた箇所に、大ぶりの素焼びんが二本、転がっている。ナイアルはその一つを拾い上げた。
「……テルポシエの北で作ってるやつだ。百九十九年度製、かなり高ぇやつ」
空き瓶にくくりつけられた、銘柄の布札をじっと見てナイアルはつぶやく。
「デリアドやマグ・イーレの店じゃあ、到底置いてない銘柄だよなぁ? つうことは、ガーティンローかオーランで買い込んで来たってか」
全然飲めなくても人気商品の流通路は頭に入っている、老練乾物商の父も同調した。
「こいつら、イリー街道経由で堂々デリアドに来やがったのだ。ついでに堂々、来た道を戻って帰る気でいるらしい」
「……スターファさんを引き連れて、か? そんな真似ができるわけ……!」
再び追跡を再開した一行、イームは“第十三遊撃隊”についてゆく形になる。
いま、先頭を行くのはビセンテだ。続く全員が、彼の毛先に絶対の信頼をおいている! いやだから、毛先以外もぜひ信頼してやって欲しい。
イリーの夏の夜はおそく落ちるが、すでに辺りは暗くなりかけていた。
「確かに、おかしい。いやがる東部ブリージ系の女を引っ立ててイリー街道を行けば、各国の検所で厄介が出るだろうし、駐在騎士や衛兵にも目をつけられる。どう見たって、そういう関のほとんどない山間ブロール街道を行くのが、後ろ暗い奴らにとっちゃ定石だろう」
「……」
イームは顔じゅうに困惑をたたえて、ナイアルを見上げている。しかし副長は、平らかな表情を崩さなかった。
――どういう裏があるんだか。今は俺っちにも、全然さきが読めねぇな??




