39.さらわれた母親
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しかし、夏の夕陽が傾きかけても、待ち人たちは帰ってこなかった。
「おかしいなあ……。普段なら、とっくに帰っている頃なのに」
イームの呟きを脇に聞きつつ、アンリは鍋の中身をかき混ぜている。
集落の住民、かくまわれている女性たちと活動協力者ら総勢十余人は、工房の大卓子で三食をともにすると言う。張り切った料理人は工房のかまどを使い、大鍋二つになみなみと煮物をこしらえたのだ。
イームの好物、がちょうに焼き目を入れてから、たっぷりの根菜類と煮込んだもの。かぐわしい脂の匂いが、工房内に漂う。
「何か……書類に不備でも、あったのだろうかね?」
ふきんをたたみながら、アンリは言ってみた。卓子前の腰掛に座ったいとこは、首を横に振る。
「いいや、そういうのに強い係の人がついているんだ。手間どるはずはないよ」
「……外来市民籍の申請は、審査に時間はかかるが、申し込み自体はそこまで複雑でもない。役所はとっくに窓口の閉まってる時間だから、帰りに何ぞ道草食ってるんでないのか」
食卓の隅ではっか湯を飲んでいたナイアルが、口を出してきた。
「えー、不吉なこと言うなぁ、ナイアル君……」
「さっすが、ナイアルさーん! なんでそんな細かいこと、知ってるんです~?」
その時、である。
がたん!
勢いよく工房の扉が開いて、女が二人駆け込んできた。
「イームさん! たいへんだ、タリナが」
「タリナだけ、帰って来た!」
不安げに口にするのは、北方訛りの濃い潮野方言だ。暗色髪をばらけさせ、青ざめた女二人は、やせた少年の肩を左右から抱くようにしている。
はっとして立ち上がり、イームはその子の前に駆け寄る。
「タリナ! 一体どうした、お母ちゃんは? 皆は?」
「い、い、イームちゃん……」
がたがたと震え、引きつれるような声で、八つくらいのその子は言う。
「お、お母ちゃんがぁ……。まちから帰る途中で、お母ちゃんがいなくなって。皆でその辺探したんだけど、見つかんないの。エンダ兄ちゃんとカーフェさんと、じいちゃんばあちゃんが、俺に先に帰れって……。……俺のお母ちゃん、北のやつらに……さらわれて、持ってかれちまったかもしんないよう……!」
う、う、ううう……!
一気に言い放ったものの、最後の部分が濡れくずれる。少年はイームの胸にすがって、むせび泣き始めた。
「……あんちくしょう……!!」
少年を抱きしめて、イームはびかびかっと頬をてからせた。
てかーッ。そのすぐ後ろ、やはり義憤に頬をてからせている料理人が、いとこの肩に手を置く。
「……手伝おう、イームちゃん!」
かたり……ナイアルも立ち上がった。
「上の三人、起こして来んぞ」
言いつつ、つかつか工房を出てゆく……。枯草基調の迷彩柄しみしみ外套を、ばさりと回し羽織る。副長の右手の短槍が、がちゃりと鳴った。
「いいのか? ナイアル君!」
背中に低く問うてきたイームの声に、ふいとナイアルは振り返ってぎょろ目を光らせた。
「心配すんな。人探しには、人出の多いほうがいいだろうがよ」




