30.“紅てがら”朝食風景
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「おはよう、叔父ちゃん」
「よう、リリ。お早う」
「お義母さん、そこの牛酪とってもらえるかい」
テルポシエ北区、多くの商家がひしめく下町の一画。老舗乾物商“紅てがら”の朝は早い。
今の季節こそ明けてはいるが、冬ならまだ真っ暗いうちから、前女将のナイアル母が起き出して火を起こす。現女将のマリエル夫婦が店内を、その娘のリリエルが玄関口を掃除する。ナイアルと、いれば父が裏の井戸から水を汲んで、内所の甕をいっぱいに満たす。
だから、寝ぼけまなこで台所の食卓に来るやつなんていないのだ。皆しゃきっとした顔で、湯気もうもうの杣粥の椀を手に取っている。
「なあ、リリ。“香り手軟膏”は今、何がある?」
叔父にふうっと問われて、ナイアル正面席のリリエルは一瞬考えた。
「野ばらと、薫衣草。でも昨日おそくにすみれのが再入荷したから、朝いちで並べて出すところだよ」
「そうか。姉ちゃん世代なら、どれもらって嬉しいかい?」
姪の真横の姉マリエルに、水平に視線をずらしてナイアルは問う。ひと世代ぶん上の同じ顔が、お粥をごくんと飲み下してからうなづいた。
「そりゃあ、おとな上品にすみれで決まりだぁね」
「ようし。ほんじゃ、すみれ手軟膏一個と。あと蜂蜜飴を一壺、贈答用で持ってくかんな」
「……お姫さまに、差し上げるんかい?」
姉の横から、そうっと恐る恐る聞いてくる母に、さらにナイアルは水平移動で目をむける。もうひと世代としを食ったおんなし顔が、微かに緊張しているのだが、やはり同じ顔の息子は全く気にかけずに答えた。
「いや、他の人に頼まれものなんだ。俺の立て替えだから、領収書も一枚切るよ」
なあんだ、“紅てがら”歴代女将たちは内心で胸をなでおろす。次期女将リリエルが幼少時代にした勘ちがいは、その母・現女将のマリエルと、前女将の祖母にそのまま伝わりわだかまっていた。ナイアルがだんな子持ちの“お姫さま”に、ずーっと報われない片思いをしているのではと疑っているのだ。昨今、“金色のひまわり亭”で二人とともに働く母としては、どうも違うんでないのかと見極めかかっていたところだったが……。
「お姫さまと言えば……。蜂蜜飴の徳用壺と蜜煮いろいろ十二壺、月初めにまとめ買いに来るでないの」
うまそうにもくもく粥を食べつつ、マリエルの夫……ナイアルにとっての義兄が言った。
「いつも、でかい旦那さん連れでさあ」
床屋の三男だけあって、いつも小ぎれい小ざっぱりな印象の、なごやかな人である。
「そうだったね。お父ちゃん」
言いつつリリエルは、エリンが“金色のひまわり亭”に置いている、ヴィヒルの蜜煮もしょっちゅう買って帰っていることを思い出す。お城の誰かにあげているのかと思っていたが、……もしかして全部、自分で消費しているのだろうか?
「いつだったかな……俺、言ったんだよ? 配達もやってますんで、言いつけてくださいよって。でも、やっぱり旦那さん連れてくるんだよね……。けっこう重いのに、ご苦労だよ」
……もと二枚目のエノ軍先行隊長は、妻に酷使されても笑顔でいるらしい。
「仲よくって結構じゃねえか。どんどんお買い上げいただこう。 そうだそうだ」
白湯をすすりながら笑うナイアルの正面、朝粥は牛酪だけですませたいしょっぱい派の母と姉は、内心うへえと首をすくめる。ナイアルの口調が、最後かすかに違ったことには全く気付かない。
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飴のつまった素焼き壺と手軟膏の小瓶は、一緒にきっちり亜麻布にくるまれて、その日出勤するナイアルが“金色のひまわり亭”に持参した。
小切手片と交換に、包みは巨大な男の掌内にわたる。
やがて手の持ち主は、何も言わずにそれを、すぅーと前方に差し出す。
ひと回り小さな、がさがさ荒れて力強い手の持ち主が、やっぱり何も言わずにその包みをそうっと受け取った。




