26.“みつ蜂”親父と娘婿
「親父っさん。にんじん多めの一つと、ふつうの二つ」
「あいよッ」
厨房の入り口で声をかける義理の息子にうなづき返し、巨大な寸胴鍋の前に立つ老人は、熊のようなその巨体をくるりと翻して鉢を手にした。
首を伸ばして、勘定長台の後ろにいる娘の方を見る。
まっすぐな明るい金髪をうなじの辺り、青いてがらできゅうっとまとめたその背中は、相変わらず細い。細いけれども、どっしり自信と威厳に満ちて、彼の目で見ても“女将の背中”だ。
前にいる客の注文を受けて、黒泡酒を杯に注ぐその仕草にそつがない、隙も無い。たのもしかった。
だから彼は今、ほとんど厨房ばかりで過ごす。店の表側のことは娘と婿にまかせて、在庫管理と料理の仕込みに念を入れ、手習いから帰ってくる孫娘の世話をする。
もう、十年ほども前のこと。
仇敵国が、テルポシエに攻めてきたことがある。急襲のあったその夜、親父の娘は城に詰めていて留守だった。どういう騒ぎと戦いがあったのだか、親父は詳しいことは知らない。隣近所の人たちが後から教えてくれて、西国マグ・イーレ軍が不意打ちを仕掛けてきたのを、精霊使いの“現王”が追っ払ったらしいとだけ、聞いている。
けれど当時は、何もかもが混沌だった。親父は焦燥の上に焦燥を重ねた。だから二日も経ってようやく家に帰って来た娘に、彼はまず怒鳴りつけてしまった。
「お前はもう、金輪際!! 城になんか、行くんじゃないッ。いや、絶対に行かせないからなッ」
娘は涙を目にためて、彼を見上げていた。黙って、憔悴しきった父親の首に両手をのばし、そこにすがりつく。
「心配かけて、本当にごめんなさい。おとうさん」
おだやかな声で言われて、彼はもう耐えられなかった。娘を抱きしめて、嗚咽を噛む。
……そしてふと気づいた。娘は一人ではなくて、背後に煤でまっ黒々に汚れた男が立っている。誰だかわかるのに間があいた。娘の友人、彼自身も気に入っていた東部系の若者。しかし親父の中の悲しみは渦巻いて、ひりついた怒りに変わった。
「……セイン、もう二度とここへ来ないでくれ。お前も他のやつらと同じだ、……クレアをいつかどこかへ連れて行こうと、胸のうちで算段しているんだろうがッ!?」
腕の中で娘がびくりとする、……しかし若者は平らかな声で応えた。
「わかってます」
他に誰もいない、閉め切った薄暗い店の中。はるか遠方からやってきた傭兵の青年は、娘と過ごした日々を通して学んだイリーの言葉で、こう言った。
「わかっています。……だからおじさん、俺のこともらって下さい」
「……はぁ?」
全く意味がわからなくて、父と娘とは顔を見合わせ、一瞬ぽかんとした。
青年は目尻を引きつらせ、結んだ唇を震わせてから……今度は爆発するような、すごい勢いでどなった!
「俺のこと、クレアちゃんのお婿に! もらってくれませんかぁッッ」
親父はがこッと口を四角く開けた。隣で娘も、口を四角く開けてたまげた。
恋の打ち明け、想いの告白なんやかんやをすっ飛ばして、父親がいるその前で大好きな女の子に求婚する男子というのは、……わりと珍しいしお話にも聞かない。
そうしてその珍しい男の子は、エノ軍傭兵をすっぱりやめて、“みつ蜂”の人間になった。それまで予備役だったセインは、成人年齢に達して本役になる直前だった……。だから戦線にも出ず、人を傷つけあやめる経験を持たずに済んだのである。
親父の言うことを聞いて、たくさん叱られほめられて、そうして娘婿の地位を勝ち取った。
地図にも名が載っていないような奥地……北部穀倉地帯のど辺境に生まれ、子だくさん家庭から口減らしのために追い出されて、傭兵としてのし上がることを夢見てきたセインに、はじめ親父は何度となく問うた。
「これまで積み上げてきたものを、ふいにしちまっても良いのか?」
「クレアちゃんと“みつ蜂”を守る方が、ずっと大事です」
繰り返し答えられて、親父は理解した。
親父にとっての宝物は、セインにとっても宝物なのだ、と。




