16.ビセンテとそいつ
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揉み療治師の母を出先に送って、ビセンテは南区の旧アリエ邸……“金色のひまわり亭”に戻って来た。
現自宅である、この元貴族屋敷の離れに戻るなり、玄関で丈の長い靴に履き替え、壁にかけてあった粗末な麦わら帽子を頭にのせる。
裏側物置からなるたけ静かに、ビセンテは道具類を取り出した。
母屋の台所脇、かつての使用人部屋で寝ている料理人はどうしたって簡単には起きないが、上階に棲息している店長は繊細だ。
と言うか夜明けにようやく机上や長椅子で寝落ちするような男だから、朝方きげんの良かったためしがほとんどない。午前中はいつにも増して、死相を浮かべている死神なのである。
ビセンテは、いくつかの鎌と枝切りばさみを持ちだす。
まだ寒かった早朝、母が出かける前に指示を出していった。古い林檎の大木のうしろ、黒苺の茂みが出しゃばり始めたから刈っちゃって。畑右はじの迷迭香は、花が終わってしまったのだけ切っておいて、云々……。
湿った空気の中で、ビセンテは黙々と作業に取り掛かる。灌木をばしばし山刀でぶった切るのは音が出るから、はじめに畑にしゃがんだ。まだ青紫の花をつけている株には、蜜蜂がぶんぶんとたかっている。
刈り取った分のまんねんろうを集め、清い芳香を放つ香草束にしたところで、ふと毛先に気配を感じる。
顔をわずかにかたむけて、麦わら帽子のつば下から見透かす。庇付き露壇に、ナイアルが立っている。ビセンテと視線のあった瞬間、ひらりと手を上げた。その仕草で、ビセンテにはすぐにわかる……。
――別のやつだ。
ナイアルの形をしたそいつは、ナイアルのつんつん金髪を揺らし、香辛料と干物がないまぜになったナイアルのにおいを漂わせながら、ひょいひょいと歩いて庭の片側にある畑までやって来た。
「お早う。今日も精が出るね」
のんびり言われて、ビセンテはうなづいた。
「ああ、まんねんろう刈ったんだ? だよね、そこの株はもう花が終わりだし。他の株と、じゃこう草は、まだまだかな……」
ナイアルの声を使って、そいつは淀みなく喋っている。
「今日は、どこか垣根の手入れをするの?」
「……黒いちご」
あごをしゃくって、ビセンテは林檎の樹の方を示した。実にぶあいそ、ぶっちょう面だが、これが彼の普通である。
「そう。とげに気をつけなよ」
ぶーん……。顔のすぐそばを、蜜蜂がよぎる。ナイアルの中にいるそいつは、やや大げさな身振りでそれをよけた。
「……エリンちゃんの植えたあさつきが、だいぶ伸びたな」
畝のすぐ近くにしゃがんで、ぽつぽつ赤紫の花がまるく揺れる、すらりと青い線のような葉をなでた。
「いいなあ。俺もあさつきは、何度か種から育ててみたんだ。けど城の屋上に置いた鉢じゃ、こんなに背が高くならなかったよ」
両手のひらをあさつきの根本、土の表面に押し当てて呟く。
「……俺も。畑、やってみたかったな」
寂しげな微笑を浮かべて地表を見ているナイアル内の男に、ビセンテはやはり無言でがんを飛ばしている。軽ーく、ではあるが。
――やりゃあ、いいじゃねえかよ??
「さーて……。そろそろ、行こっかな」
そいつはおもむろに立ち上がり、腰をのばす。極太まゆ毛に翠のぎょろ目、テルポシエでは他に類を見ないぶさいく男子面(※アンリ談)が、ビセンテに優雅に笑いかける。
「またね。がんばって」
くるりと振り返って、二歩三歩と行きかけ、……足を止めた。
突っ立っているナイアルの背中に向かい、ビセンテはやはり長い間がんを飛ばしていた。しかし、そうしているのにもいい加減に飽きる。獣人はもそりと立ち上がり、歩いて行ってナイアルのうなじ、麻襟の真ん中あたりを、ぐりっと親指で押してやった。
「ふ、おおおおッ!? ……あれっ、俺なんで庭でぼーっとしてんだよ、えーと……?? よう、ビセンテ。今朝もがっつり野良仕事か、偉いじゃねえかよ」
もう一度振り返ったのは、こちらは正真正銘のナイアル本人だった。
「……」
獣人は副店長の手前に、無言で香草束をつき出す。
「お、まんねんろうな! アンリに渡しとくよ。あいつもう起きてるし、さっき通ったら大将も便所入ってたかんな。派手にどんぱち仕事やって、構わねえよ」
ほんじゃ頼んだぞう、とナイアルはナイアルらしく、母屋に向かって去ってゆく。ビセンテは鎌を手に、林檎の樹の裏へとのしのし歩み寄りながら、鼻を鳴らした。
エリンのこと、ナイアルのことをよくよく知っているらしい今さっきの妙な男は、時たまこうしてナイアルの身体を使い、庭に出てきては彼に話しかける。
ナイアルの翠のぎょろ目を、夢みるようにうっとりさせて、庭の樹々や千草や花々、畑の作物を見つめている。遠目にエリンを見ていることもあった。
特に害のあるやつでなし、ごく短時間のことだから、ビセンテはきつめの眼力で追っ払うことはしなかった。……調子に乗って長居を始め、ビセンテの毛先神経をいらつかせるようになったら、迷わずそうするつもりではあるが。
獣人は、目の前にかさばる黒苺の茂みを見すえた……。ぎーん! にらむ。
料理人の杣粥が煮える匂いを感知する前、第二次朝めしにありつく前に、この辺一帯のしちまおう、と気合を入れたのであった。




