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庭師が私を攫うまで  作者: 天乃まりの
萌しの篇
5/14

5 デート?③

活気のある商店街を通り抜け、人もまばらになってきた辺りで、ゆりあと柊一の二人は角をひとつ曲がって大通りから細路地に入った。

先ほどまでがやがやと騒がしかったのが急にしんとなり、ゆりあは思わず立ち止まる。


「…やっぱやめとくか?」

「い、いいえ、ちょっと静かだったから驚いただけ」


初めて感じる空気。

暗い森の中で、木陰から狼がこちらの隙をじっと伺っているような。

寒気を感じてぶるりと身震いをする。


「古本屋さんはどこなの」

「もう少し川の方に向かったところだ。五分もしないで着くから」


ざりざり、と小さな砂利を踏む音がいやに響く。

ゆりあは足音によく耳をすませた。知らぬうちに自分と柊一以外の足音が増えていたりはしないか、誰かがついてきていたりしないか、どきどきびくびくして時折後ろを振り返りながら進んでいく。


「ほら、ついたぞ」


柊一に言われて顔を上げると、古びた小さな木造建築の建物があった。

『沢村書店』と大きく書かれた看板は斜めに曲がっていて、軒先のテント屋根は赤色だったものが錆色に色褪せている。『本買い取ります』のポスターは端っこが破れていた。

店頭に置いてあるワゴンにはたくさんの古本が並べられており、芥川龍之介やら太宰治やら純文学もあれば、辞書やら図鑑やらといった学習資料もあり、雑誌も一緒に置いてある。


「ごちゃごちゃね」

「古本屋ってのはそんなもんだよ」

「これ、一冊いくらなの」

「ものによる。まあ美品とか珍しいもんじゃなければ、一冊2円から5円くらいじゃねえかな」(※)

「安い!」

「古本屋だからな」


ゆりあがワゴンの中をきゃあきゃあと物色していると、柊一は「俺は中の絵本の棚にいるから、なんかあったらすぐ中入って来いよ」と言ってひとり店の奥へ入ってしまった。

「はあい」とひとつ返事をして、ゆりあはワゴンの中から一冊手に取ってぱらぱらとめくる。

文芸雑誌の『若草』であった。昭和12年の10月号。


太宰治の『燈籠』が載っていた。

ざっとしたあらすじになるが、貧しい生まれで両親の過去もあいまって嫁の貰い手のつかない日陰者の主人公・さき子が、年下の学生に恋をし、彼を想って彼のためにと罪を犯す話である。


ゆりあは最後まで読んで、「馬鹿な女」と思った。


それ以外の感想が、今は浮かばなかった。



「お嬢さん」



雑誌を閉じたのとほぼ同時に、背後から声をかけられた。


勢いよく振り返ると、ざんばら頭の、ひどく汚い着流しを着た、一目見てよからぬことを考えていそうな人相をした男が立っていた。


「……私に何か」


ゆりあは雑誌をワゴンに戻し、爪先を店内に向け、男に対して身体を斜めに向けて返事をした。

すぐに逃げ込めるようにである。


「いんや、お嬢さんみたいな小綺麗な女がこの辺にいるのは珍しいんでね。迷子かい」

「いいえ。連れがいます。用が済んだら帰るから、ご心配なさらないで」

「そうかい。男かい。純朴そうな顔して、案外やるねえ」


ヒッヒッと引き笑いをしながら、男は無精ひげの伸びた顎をぼりぼり搔き始めた。

下卑た笑いだ。ゆりあは不快感を隠さず眉をぴくりと動かす。


「…私は『連れ』としか言っていないはずですが」

「あんたみたいないかにも世間知らずですって顔した女が、こんな路地に、護衛も連れずに来るはずないだろう。そうしたら、マァ女じゃあねえわな」

「案外頭は使えるのね。礼儀は知らないようだけれど」


相手にするだけ無駄だとふんだゆりあは、店の奥に消えた柊一を探しに、一歩踏み出そうとした。


「おっと」


そのゆりあの腕を男が掴む。

ぐんと後ろに引っ張られ、体勢を崩した。


「ちょっと!触らないでちょうだい!」

「マァそんな怒るなよ、ちょっと金をくれねえかって、それだけの相談だ」

「冗談じゃないわ。私、人にお金を貸しちゃいけないって言われてるの」

「誰が貸してくれって言った?施しだよ、施し。あんたみたいな金持ちは俺のような貧乏人に余った金を寄越す義務があるんだよ」


振り払って逃げようとするも、男の力に敵わず、一歩も動けない。

そうしているうちに男はゆりあの首に腕を回し、腰にさしていた刃こぼれした草刈り鎌を突き付けた。


「ひ、」

「ああ、気丈なお嬢さんでも、さすがに刃物は怖えんだ」


ゆりあの身体がびしりと固まった。

人に刃物を向けられたことなどない。明確な悪意をぶつけられたこともない。

がたがたと全身が震え、奥歯がかちかち音を立てる。

血の気が引いていくのを肌で感じた。爪先や指先からドッと血が戻ってきて、ばくばくと心臓が飛び跳ねる。冷たくなった身体で、果たして今自分はしっかり地面に足をつけているのだろうか。


男は反対の手でごそごそとゆりあの鞄を漁り始めた。財布らしきものを探り当てると、素早く抜き取って自分の着流しの袂へ仕舞い込む。



———と、その時、袂からするりと財布が落ちた。

滑りやすい素材でできた財布だったので、おそらく男が浅く仕舞ったせいだろう。



トン、と地面に財布がぶつかる音がして、男が一瞬それに気を取られ、ゆりあの首に巻き付けていた腕を緩めて鎌の刃先をゆりあから離した。


———瞬間、男の身体が宙を舞った。



———ドサッ!!


「キャ―――――ッ!?何!?何————!?」



一瞬の出来事だった。


絵本を買って店の入り口に戻ってきた柊一が、鎌を突き付けられ涙目になっているゆりあを見つけ、目にもとまらぬ速さで男に近付き、財布を取ろうと僅かに屈んだその男の顎を蹴り上げ———勢い余って身体ごとお天道様に向かって吹っ飛ばしてしまった。


急に解放されたゆりあは尻餅をつき、衝撃音に驚いて頭を抱え込んで悲鳴を上げた。


「な、なに、なんで、ええ…?なに…?」


地面に倒れ込む男と、遠く飛ばされた鎌を交互に見、自分の身体や顔をぺたぺた触ってどこも痛くないことを確認しながら、ゆりあはゆっくり顔を上げた。


「ひぇ」


般若のごとき顔をした柊一が立っていた。


「しゅ、柊一……?」


「ゆりあ」


「はいっ!」


短く名を呼ばれて思わずびくりと肩を震わせて返事をする。


柊一はゆりあの前に跪いた。


「怪我ねえか」

「な、ないわ、大丈夫…」

「そうか、………そうか………」


はー、と長く深いため息をつく。

よく見ると柊一の肩は激しく上下しており、絵本の袋を持つ手は震えている。


「……良かった」


柊一は空いている手で顔を覆い、額に浮かんだ汗の玉を拭うように前髪を搔き上げた。


「ごめんなさい、…声をかけられたときにすぐ逃げるべきだったわ」

「いや、俺の方こそ、危ないって知ってて店先に置いて行って悪かった…すぐ戻るから大丈夫だと思ったんだ、悪かったなほんとに…」


ゆりあの財布を拾い上げてぽんぽんと砂埃を払ってやると、「ほら」と言って柊一はゆりあの鞄にそれを入れ直してやった。

ありがとう、と言ってゆりあは立ち上がり、お尻についた砂を払い落として、倒れた男の方を見る。


「…この人、柊一が言っていた貧乏長屋の人かしら」

「あー…わかんねえが、住まいがあったらマシな方、…恐らくだが浮浪者じゃねえかな」

「…住むところすらないってこと?」


ゆりあはそれを聞いて、なんだか少し申し訳なくなった。

いくら大きな商家の娘だからといって、小娘の財布の中に入っているお金などたかが知れている。それを渡したところでゆりあは別に困らないし、ならばお金に困っている人に渡せと言う男の主張もわからないではないのだ。


財布を開いて、紙幣を何枚か取り出そうとした。


「ゆりあ」

「え、」


その手を、柊一が掴んで止めた。


「やめておけ」


柊一はゆりあを見ることなく、未だ気を失っている男の方をじっと見つめている。


「で、も…」

「お前はそうするだろうと思った。住むところがねえ、あったけえ飯が食えねえ、綺麗な服なんて夢のまた夢。そんな奴が目の前にいたら、お前は助けてやりたくなっちまうよな」


男に近付き、襤褸切れのような着流しの袖を人差し指と親指でそっとつまむと、柊一は眉をひそめた。

ガサガサの布で肌に傷が出来ている。風呂にも入れていないから悪臭はするし、皮膚病にもかかっている。


「けど、こういう奴に必要なのはいっときの金じゃねえんだ。…長い援助と、まともに暮らすための力を育ててやんなきゃなんねえ。お前にそれは無理だろ」

「……」


ゆりあはぐっと押し黙った。ゆりあはまだ子供で、この男を雇う権利は持っていないし、養ってやることもできない。

それにこの男一人救ったところで根本的な解決にはならないということも、ゆりあは薄々わかっている。


「最後まで面倒見切れないなら半端に手を差し伸べるな。薄情に思うかもしれねえが、一度金を渡して、今後一生こいつがせびりに来たらどうする。こういう奴らの情報網を侮るなよ。お前がどこの誰なのか、すぐに突き止めて家まで来るぞ」

「……わかったわ。ごめんなさい柊一。……帰りましょう」


ぱっ、と男から視線を外して、ゆりあは商店街の方向へ振り返る。


柊一はふぅと息を吐いて男のそばを離れようとしたが、その途端、男の手が少し動き、ガッと柊一の手を掴んだ。


「…なんだよ」


柊一はゆりあに聞こえないように小さな声で男の顔を除きこんだ。

鼻血を流し、その鼻血が口に流れ込むのも気にせず、男はニヤニヤと笑っていた。


「その顎の傷、…あんた、どっかで、と思った…」


その言葉に目を見開く。ぞっと胃の底が冷たくなるような感じがして、柊一は「あぁ?」と精一杯凄むような声をひり出す。


「はは、…あの女に知られたくねえんだ?………俺ぁあんたを知ってるぜ、なあ、」


男の唇が横に広がり、「ひ」というかすれた音を吐いたとき。


柊一の拳が、男の腹に沈んでいた。


オェッと小さくえずいて、男は再び気を失った。



「柊一?何してるの、帰るわよ」


「ああ、悪い。他に取られたもんねえか確かめてた」



柊一はさっさと立ち上がって男の身体に躓くふりをしながら蹴っ飛ばすと、たかたか走ってゆりあの隣に並んだ。

そして改めてゆりあの手を握って、「帰るか」と言った。









商店街のざわめきが耳に戻ってきたころ、柊一は「そういえば」と言ってゆりあを見つめた。


「お前、文通とかお出掛けとか手を繋ぐのが恋人の前段階っつってたけど。今日で既にデートもしちまったし、手も繋いでるどころか恋人の繋ぎ方だぞ。いいのか?だいぶ段階飛ばしたろ」

「えっ」


言われてゆりあは柊一の顔と繋がれた二人の手を交互に見る。


数秒の沈黙の後、首から額にかぁっと血が上り、茹蛸のように真っ赤になった。


文通を馬鹿にされた勢いでデートに誘ったのですっかり気にしていなかった。

はたから見れば今の自分たちは明らかに恋人同士だ。


「あっ、…そ、う、よね」


ぐるぐると目を回すゆりあに、柊一は呆れたように笑った。



「お前ってほんと変」



斜陽に照らされた彼の笑顔に、ゆりあの胸がくぅと鳴く。


(…えっ?今、なにか、こう、胸がつかえるような心地がしたような)


気のせいよね、と胸元を撫でた。


恋人になるために必要な事前ステップを、今日で全て達成してしまった。

そうなれば今の自分達はもう恋人と呼べるのだろうか。


否。ゆりあは『恋』がしたいのだ。事務的にこれこれこういうことを達成したからもう私達は恋人です、というのは元の目的からずれている。


「ねえ、柊一」

「あん?」

「今一度確認したいのだけど…あんたが私に恋を教えてくれるっていうのは、私があんたを好きになれたら、恋を教わったことになるの?」

「……おん?」

「……柊一が私を好きになってくれることも含めて、『恋』を教えてくれるの?」



見上げた瞳はうるんでいる。

光の加減かもしれない。


きらきらと輝く双眸。

女の瞳を宝石に例える気障な口説き文句を初めて聞いたとき、柊一はゲェと嫌ったものだが、少しばかりわかったような気がする。


ゆりあの瞳は宝石、いや、宝石箱そのものだ。



「……気が早ぇんだよ、ガキ」



ゆりあの顔を見ないようにして、柊一は彼女の顔を引っ掴んで前を向かせた。

ギャッと声を上げて「何するのよ!」と吠えるゆりあを無視して、熱くなる顔を夕日のせいにしようとそっぽを向く。



「…別にこういうデート一回したからって恋人になるかどうか決まるわけじゃねえだろ。何回か出掛けたり、話したり、そういうのを繰り返すうちに自然と…自然とそうなるんだよ、恋ってのは」

「そういうものなの?」

「わかんねえけどそういうもんだ、多分。俺は昔から周りの兄さんらの恋バナを聞いて育った」


柊一は幼少から庭師見習いとして修行をしていたため、当時兄弟子たちが沢山いた。その兄貴たちから聞く恋バナから得た情報を、『恋』という科目としてインプットしている。

つまるところ耳年増であって、実際女性とデートしたことも、恋をしたこともないのだった。



「でも、じゃあ、そういうことなら、これからも沢山デートをしてくれるってことよね」

「……ん?」



立ち止まった柊一に、ゆりあはにんまりと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。



「今日のあんたの蹴りは素晴らしかったわ。意外と腕も立つのね」

「まあ、男社会にいると自然と…っつーか、兄さんの中に荒事の得意な人がいて…いやそれ何の関係があるんだよ」

「次のデートの提案よ」


柊一の前にたたっと回り込んで、ビシッ!と指さすと、ゆりあは得意げに宣った。




「あんたを今度のパーティーの伴として連れて行くわ。護衛兼恋人候補としてね!」





柊一がその言葉を咀嚼して理解するまでに、一拍。





「は…


はああぁぁぁぁぁ!!?」






その声は商店街の端から端まで、いやその先の住宅街まで、ぐわんと響き渡ったのだった。

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