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庭師が私を攫うまで  作者: 天乃まりの
萌しの篇
2/14

2 はじめての文通

ゆりあと柊一が契約上の恋愛関係となったその日の夜、ゆりあは離れにある柊一の部屋へ足を運んでいた。

まずは文通から始めましょうということで、急いでしたためた手紙を少しばかり手汗で湿らせながら、柊一の部屋の襖に向かって声をかける。


「柊一?ゆりあだけれど、いるかしら?」


亥の刻。そういえばこんな夜に柊一の部屋を訪ねたことなんてなかったわね、とゆりあは辺りを見回す。

そもそも離れに近付くこと自体少なかったため、こんな造りだったかと天井を見上げたり、薄暗い廊下の先を意味もなく眺めたりした。

普段ゆりあが住んでいる母屋とはずいぶん違っている。屋敷自体に文化的価値があるため、外観はさほど変えていないにしても、時代ごとに改築を繰り返した母屋はところどころ洋風住宅の意匠が取り入れられているのに対し、離れは江戸末期に一度改築して以降多少の修繕程度にしか手を付けていないためかなりの古さだ。

蛍光灯が普及した今でさえ離れでは皆行燈や石油ランプを使っている。


三十秒ほど待ったが返事はない。

少し苛立って、ゆりあはもう一度声をかける。


「ねえ柊一。柊一ったら。今夜文を届けるわって言ったわよね?いないの?」


しばしの沈黙が流れ、しびれを切らして襖の引手に手をかけた。

顔半分くらい、そっと襖を開く。


部屋の中は灯りひとつついていない。

のっぺりとした闇の中で目をこらすが、柊一はいないようだ。


「んもう。約束したのに」


仕方がないので襖の隙間に手紙を挟んで、ふわふわの髪を翻す。

ぱたぱたとスリッパの音を立てながら本宅と離れの間のガラス張りの渡り廊下を歩いていると、中庭にぼんやりと橙色の光が浮かんでいることに気が付いた。提灯の明かりらしかった。


「あら?誰かしら…」


目をぎゅっと細めて人影を見つめる。

こちらに背を向けているので顔は見えないが、上背があって肩幅が広くがに股なところを見るに、男、そして力仕事をする使用人の誰かであろう。


「柊一?」


柊一のように見えた。

彼と同じくらいの背丈で同じような体型の使用人は何人かいる。だから確証はないが、提灯を持つその手の骨ばった感じが、今日の昼間に自分の手を握ったものと似ていたのだ。


(中庭の木の様子でも見てるのかしら。こんな時間なのに)


本当は中庭におりて何をしているのか聞きたかったが、履物を持って来ていないのでゆりあはそのまま自室に帰ることにした。




渡り廊下から誰かが見ているような気配を感じた柊一は、その気配がなくなるまでじっと動かずに待った。

あの位置からでは顔は見えないだろう。

こんな時間に中庭に出て何をしていると問われてしまっては面倒くさい。

柊一は御堂家への奉公のほかに抱えている仕事を終わらせてきたところで、中庭にぼうっと佇んで『御堂家の庭師としての柊一』に戻る準備をしていた。


柊一は器用な男ではない。仕事内容によっては心を殺さなければ達成できないことも多くあるため、もう一つの奉公先に行く前と帰ってきた後は、こうして人格の切り替えを行わなければやっていられなかった。

それが毎夜中庭で行われる柊一のルーティンである。


(あっぶね~…誰だ今の)


完全に気配がなくなってから、自身も中庭から離れに戻る。

自室の襖に手紙が挟まっていることに気が付き、ああさっきの人の気配はゆりあだったのかと合点がいった。


(なら別に待たなくてもよかったな。適当に誤魔化せたのに)


やれやれと首を捻りながら挟まっていた手紙を開く。

蛇腹状に折り畳まれたそれと、表紙に書かれた「柊一へ」の字を見て、いやこれ果たし状の類だろと吹き出しそうになった。ついこの間、イギリスだかどこかの国へ出張へ行った源治からの土産で、オシャレな羊皮紙のレターセットをもらっていなかったか。貴重なものだからおいそれと柊一との文通には使ってやらないということだろうか。


手紙を持って部屋の中へ入る。オイルランプを点灯させて提灯の火を消し、部屋の隅にぽつんと置かれた文机の前にどっかりと座ってしげしげ手紙を読み始めた。


『柊一へ

 男の子と文通だなんてしたことがないものだから、何か失礼があったらごめんなさい。

 さて、何から書いたらいいかしら。

 かれこれ一時間書くことに迷ってペンが止まってしまっているわ。使っているのがお気に入りのガラスペンなものだから、そうこうしているうちに何度もインクが乾いてしまってやり直し。

 男の子って何に興味があるの?まずはそこから教えてほしいわ。

 そういえば柊一は字が汚いことを気にしていたから、ためしに薄墨で手本を作ってみたの。別紙添えてます。それをなぞって練習してみたらいいんじゃないかしら。私これでも字が綺麗ってクラスで評判なのよ。

 最初の手紙なんてこんなものかしらね。それじゃあお返事待っています。ゆりあ』


手紙の通り、添えられたもう一枚の紙は薄墨で書かれた五十音表だった。


「いや馬鹿にしてんだろ」


思わずそう呟いたものの、ゆりあが完全な善意でやっていることは柊一もわかっているので、ため息をひとつ吐いてからペンを執る。


「…これ、返事書く時字が汚かったら怒られそうだな」


厄介なことを引き受けたものだ。もう少し対価を引き上げてもよかったか。


そうは思いつつも柊一は、丁寧に書かれた薄墨の『あ』の字をなぞり始めたのだった。






翌朝。

女学校に行く準備をしていたゆりあの部屋に、ノックの音が響いた。


「はぁい」


ドアノブが回って木製のドアが開く。

柊一が立っていたので、ゆりあはドレッサーの前に座ったまま顔だけそちらに向けて挨拶をした。


「あら柊一、おはよう。」

「ん。ほら手紙」


ぶっきらぼうにゆりあに突き出された手紙は少しくたびれている。

ゆりあは手紙と柊一の顔を交互に見て、「本当に書いてくれたの」と小さく零した。

まるでまったく予想していなかったのような、最初から返事なんて来ないものと思っていたかのようなその表情に、柊一は眉を顰める。


「あ?『お返事待っています』って書いたのはお前だろ」

「書いたわ、書いたけど、だけどほんとに書いてくれると思わなかったの」


ゆりあは髪をとかしていたブラシをドレッサーに置いていそいそと柊一の前までやってくると、そのかさついた紙を受け取り、ぎゅっと胸に押し付けた。

大切なものを抱き締めるような仕草に、柊一は目を見開く。


「ふふ、うれしい、男の子から招待状以外のお手紙が来たわ」


くすくすと鈴が転がるような声で笑い、頬を桃色に染めるゆりあ。

きまりが悪いような心地の柊一は、思わずゆりあから視線を外してぽりぽりと頬を掻く。


「大したこと書いてねえぞ。貰った表で練習もしたが、まだ字はきたねえし」

「一回で綺麗になるなんて思わないもの、これから毎回練習用紙をつけてあげる」

「お前は俺のかーちゃんか」

「使用人の教育も私の務めよ」


ゆりあは手紙を顔の前に持って来て、「ねえこれ今読んでもいーい?」と柊一に尋ねた。


「お前学校あるだろ」

「手紙読むくらいの時間はあるもの。ねっ、お願い」

「別にいいが俺は仕事があるからもう行くからな」


柊一はそう言って踵を返し、ドアを閉めた。

ゆりあは慌てて廊下に出て、さっさと立ち去っていく柊一の背中に向かって「今夜またお返事を書くわ!」と叫んだ。

柊一は振り返りはせず、ひらりと肩の高さで手を振るだけだった。


部屋に戻ったゆりあは浮かれた足取りでライティング・ビューローの前に座り、高鳴る胸を深呼吸で治めながら手紙を開いた。


『ゆりあへ

 俺もめったに手紙なんざ書かねえから、これで合ってるのかはあやしい。

 男の興味といわれても、俺は木と草花にしか関心のねえ男だから、参考にはならないかもしれねえぞ。

 そんな俺が最近興味があるのは植物学だ。大学で学べるらしいが、まあ俺にはそんな金も学もないから遠い世界の話だけどな。

 五十音表わざわざ作ってもらって悪かったな。ペンできれいに書くってえのは、存外むずかしいもんなんだな。線ががたがたしちまっていけねえ。

 お前と手紙のやりとりをするうちにきれいになればいいんだけどな。

 俺もなんか教えられることはねえかと思って用意してみた。

 簡単な桜の絵の描き方だ。別紙参考に。 柊一』


「ええ?柊一が何を私に教えるっていうのよ…絵なんて、絵画の先生が来てくださるからいいのに…」


言いつつ別紙を見てみると、ペン一本で簡単に描ける桜の花の絵のようだった。

ゆりあが絵画の授業で習うような本格的な美術と違い、手紙の最後に添えたり、サインに添えたりするのが似合うような、ころんとした可愛い桜。


「マ!かわいい桜!」


ゆりあはこうしたちょっとした絵をさっさと描ける人に憧れていた。手順も一緒に書いてあったので、興味深く読みこんだ。


『まず豚足を五つ、』

「ふふっ、豚足って」

『二股になってないほうを真ん中に集めるように描く。この時、豚足たちを互いにふれさせず間を空ける』

「豚足たち…んふふっ…」

『中心に丸点をひとつ。完成。』

「えっうそこれだけ!?」


拍子抜けするほど簡単な工程に、ゆりあは思わず声を上げた。


「普通の絵って、こんなに簡単なのね…」


はぁ、と感嘆のため息をついて、手紙を折り畳む。

文通は案外こんなものでいいのかもしれない。

かしこまらずに、日々の些細なことや、互いの小さな特技を教え合うような。


「毎日こんなやり取りができるのね、文通って」


折り畳んだ手紙をもう一度抱き締める。


思い返せば、自分の都合のいい時にだけ柊一と遊んで、柊一のことを知る時間はほとんどなかったかもしれない。付き合いこそ長いものの、ゆりあは柊一のことを何も知らない。出自も何もかも。普段どんなことを考えて生活しているのか、好きな食べ物は何か、そんな基本的なことさえ。


(私、柊一のことほんとに知らないのねえ)


手紙を通してもっと柊一のことを知ることができるかもしれない、そう考えると、ゆりあはこれからの毎日が———手紙があるという毎日が、とても眩しくて優しいもののように思えた。




「始めてよかった。やっぱり柊一を相手に選んでよかった…」




そう独り言ち、ゆりあは手紙をビューローの引き出しにそっと仕舞い、学生鞄を掴んで自室を出て行った。

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