15 家の務め
「それで、結局文化祭デートの約束をしちゃったの?」
金曜日の放課後。約束通りゆりあの家に集まってドーナツの試作をしていた馨と雛子は、先日ゆりあの婚約者が訪れて無茶苦茶な交換条件を持ち出したという話にくぎ付けになっていた。
ゆりあは牛乳の量を量りながら、「いいえ」と答えた。
「まさか。冗談じゃないわ。なんでたかがチョコレートのためにあの人とデートをしなくっちゃいけないのよ」
「なんだ、ゆりあのことだから目先のチョコレートに釣られてOKしてしまったかと思っていたよ」
「実際いただいたお土産のチョコレートは美味しかったとおっしゃってましたしね」
予想が外れて肩をすくめる馨と、くすくすと笑う雛子を少し睨みつけてからレシピ本に目を落とす。
「おいしかったわ。おいしかったから、メーカーだけ教えてもらってお父様に必要分買い付けていただくことにしたのよ」
あの日―――突如としてゆりあの家に訪れた婚約者の京極壱誠は、ゆりあが文化祭で使うチョコレートの仕入れに悩んでいることを知るやいなやペラペラと自身の御用達のチョコレート屋について語り出し、融通してやる代わりに文化祭デートをするよう要求してきた。
ゆりあは最初こそその突飛な提案に面食らって硬直していたが、次第に「なぜたかがチョコレートの融通程度でここまで厚かましい要求ができるのか」と腹が立ってきたのだ。
甘い笑みを浮かべている京極を、くっと吊り上がった猫のような目でゆりあはじっと見つめた。
本能的に感じる、相手の余裕と油断。大きな商家に生まれて蝶よ花よと育てられた16歳の小娘などたやすい―――そう思って見下しているのだということがすぐにわかった。ゆりあは人を見る目こそまだ成長途中だが、自身を「箱入りの小娘」として見ているか、「御堂家の次代当主」として見ているかの区別はさすがにつく。
「―――条件について検討する前に、そもそもそれに値する品質かどうかを確かめなくちゃお話にならないわね」
「おや、さすが源治さまの娘さんだ。慎重なのは良いことですよ」
そう言うとゆりあは客間の内線電話で使用人に壱誠の土産のチョコレートをひと箱寄こすように言いつけ、色とりどりの宝石のような高級チョコレートの見た目には見向きもせずに口に放り込むと、査定をするようにじっくりと味わった。
口に入れた途端に広がる芳醇なカカオの香り、雑味がなく、ざらつきを感じない滑らかな舌触り。少し溶け始めるとフルーティーな風味が漂い、中心に入っていたであろうフランボワーズのピューレが流れ出す。甘みと酸味のバランスが絶妙で、たしかにこれは自信満々に持ってくるわけだ、と納得した。
「おいしいですね」
「そうでしょう?僕の家はそこの職人とも仲がいいですから、ゆりあさんのお好みの味のチョコレートをご用意することもできますよ。ほら、カカオの配合量や品種によっても風味が違いますから」
「素材や品質にこだわるのは大切よね。やっぱり貿易商の方は違いがわかるのね」
「ええ、そうですとも。舌が肥えてしまって、並大抵のものでは満足できなくなってしまうのが困りものなのですが」
「先ほどブリュッセルの老舗とおっしゃっていましたものね。あちらは洋菓子の本場ですし、競争も激しい中長く生き残っているのだから実力は確かなものでしょう。ショコラティエの方の熱意を感じますわ」
「さすがゆりあさんはわかっていらっしゃる。その熱意と確かな味をかわれて、ベルギー王室御用達にもなっているんですよ」
ゆりあに土産を褒められて浮かれあがった壱誠は、そのままベラベラとそのチョコレート屋のことを話し始めた。
ゆりあはにこやかに相槌を打ち、時には「まあ」と目を丸くして驚き、チョコレート屋の苦難の歴史を聞いた時には神妙な顔つきをしてみせた。実際には内心、「よくしゃべる男だこと」としか思っていなかったが。
ひととおり話し終えた壱誠が「いかがですか?こちらを必要分融通しますので、僕と文化祭を一緒に回ってくださいませんか?」とゆりあに手を差し出した。
ゆりあは「うふふ」と控えめに笑い、その手をパシリと払いのけた。
「お断りいたしますわ」
「えっ?」
「今の話でだいたいどこのお店かわかったもの。本当はパッケージのロゴを見れば早かったのだけれど、あなた、私が自分でお店を突き止めないように無地の箱で用意させたのね」
壱誠は肩をすくめてため息をつくと、「ばれてしまいましたか」と眉を下げた。
「気に入ってくださったら、お店の情報は秘密にして僕に頼まないと手に入らないようにしたかったんですよ。そうしたら僕に頼ってくださると思って。お話の機会も増えるでしょう」
「子供が考えつくようなやり方だわ。ずるくて不親切で、あなたと別にお話ししたくないと思っている私の気持ちを無視して」
「おや手厳しい。ただね、ゆりあさん」
立ち上がった壱誠が、鼻先が触れそうなほど顔を近付けた。薄い茶色の髪が、ゆりあの顔に影を落とす。
反射的に上半身を反らしたゆりあだったが、椅子の背が邪魔をしてたいした距離を取れなかった。
「僕はあなたの『婚約者』なんですよ。あなたがどう思っていてもね。僕だって16歳の小生意気な女のもとに婿入りするのなんて本当はごめんですよ。ただこの婚約はお互いの家にとって将来的に大きな利益を生み出す。そのために未来の妻とは仲良くしておこうって思うのは当然じゃないですか?僕は家のために粛々と務めを果たそうとしているんです、身分違いの恋に無駄な憧れを抱いて現実逃避をしているあなたとは違ってね」
「…!!」
カッとなったゆりあが思わず振り上げた右手を、壱誠は一瞥もくれずに掴んだ。
ちっとも振りほどけない力の差に、ゆりあはますます悔しくなって精一杯彼を睨みつける。
―――どうしてそんなこと言われなくちゃならないのよ!
勝ち誇ったように笑う壱誠の顔を引っ搔いてやりたい衝動に駆られた。
そしてなぜか、ゆりあの婚約者に微塵も興味を示さずにさっさと使用人棟へ帰ってしまった柊一の背中を思い出し、無意識にじんわりと目頭が熱くなった。
柊一も大概失礼な物言いをするけれども、その言葉に侮蔑の色はまったく感じられなかった。
小娘だのわがままだの散々言われたのに、いつもその奥にはゆりあに対する情が感じられた。
それに比べて壱誠の言葉は心の底からゆりあを下に見て、貶して、軽んじている。
悔しさと、ほんのわずか図星をつかれた恥ずかしさで、ゆりあはこれまで経験したことがないほど心がかき乱された。
―――トットッ。
「「!!」」
嘲りと怒りの視線が絡み合い静まり返った客間に、軽いノックの音が響いた。
壱誠の力が一瞬緩み、ゆりあはバッと手を振りほどくと慌てて「どうぞ」と答える。
「あの、お姉さま、京極さま、失礼いたします」
控えめな声がして、ゆっくり扉が開くと、その先に立っていたのはすみれだった。
「すみれ!どうしたの?」
ほっとしたような、別の誰かを期待していたようながっかりしたような気持ちを抑え込み、ゆりあはすみれに駆け寄った。
「お話し中すみません、そろそろ夕飯のお支度が始まるのですが、あの、京極さまもよろしかったら…」
「あら、そんなことわざわざすみれに言伝を頼まなくったって使用人を寄こせばいいのに」
「あ、いいえ、お母さまが、お姉さまの婚約者の方がいらっしゃっているからご挨拶をと…」
おどおどした様子ですみれが壱誠を見つめる。壱誠はにこりと笑うと、「せっかくのお誘いですが」と残念そうに言った。
「これから会食がありましてね、また別の機会に。…おっと、ご挨拶が先でしたね。京極壱誠と申します、ゆりあさんの妹さんのすみれさん、でしたね。」
「あ、は、はい…よろしく、お願いします…」
すみれが小さくお辞儀をすると、こちらこそと壱誠が微笑み、ゆりあはじっと壱誠を睨みつけていた。
「それでは、本日はこれで失礼いたします。ゆりあさん、せっかくチョコレートを開けたので、すみれさんとこのまま召し上がってください。お見送りは結構ですから」
それだけ言うと壱誠は客間を出て行った。
微妙な静寂が部屋を包み、すみれは心配そうにゆりあを見上げた。
すみれは聡い子だった。幼少期から母と姉の顔色を窺って育ってきたからなのか、他者のほんの少しの感情の機微も、その場の空気も、何もかも読めてしまう。
ノックをする前。扉越しにわずかに感じた、ひりついた空気。
そして、やや赤くなった姉の手首。
部屋の中で何が起きていたのか―――少なくとも穏やかな話ではないだろう、と思っていた。
「…あ、の、お姉さま、手が…」
「あ、ああこれ?いやね、あの人が聞いてもいない自慢話をべらべら話すからいらいらしちゃって―――ひっぱたきたくなるのを必死に押さえていたの。赤くなっちゃったわね。」
すみれから隠すようにして自分の手首を腰の後ろへ回し、ゆりあはにっこり笑って「チョコレート、いただいたのよ。食べたら?」と目線だけテーブルの上に移した。
すみれは何か言いたげにしながらも、「いただきます」と言ってソファへ腰を下ろした。
「ああもう、思い出すだけでいらいらする!ともかく、私はそうやってあの男を追い返したのよ」
「それは追い返したって言わないよ。すみれちゃんが助けてくれたんだろう」
「そうですよゆりあさん、力では男の方にかないっこないんですから、もう少し気を付けてくださいな」
油の温度を菜箸で確かめながら、雛子がゆりあを窘める。馨もうんうんと頷き、ドーナツ生地の形を整えていた。
「わかってるわよ」
ゆりあはそう言いながら、刻んだチョコレートを湯煎にかけていた。
次第に形を失い、とろとろと溶けていくさまを見つめながら、壱誠に手首を掴まれた時の感触を思い出す。
産毛が逆立つような心地がして、気を許していない異性に触られることへの嫌悪感が湧き上がってくる。
初めての柊一とのデートの時に浮浪者に襲われたり、雛子の家のパーティーで強姦されそうになったりしたときと同じ感覚。
遠慮も配慮も一切なく、ただこちらを害するために迫ってきた手。
(…柊一に触れられるのとは、全然違ったわ。)
柊一も男であって、その体躯は男の中でもかなり大きいほうだ。襲われたら全く敵わないだろう。
ほんの少し力を込めただけでも、ゆりあに怪我を負わせることだってできる。
「…柊一が、いつもどれだけ優しく私に触れてくれているかわかった」
ゆりあと手を繋ぐとき。髪に絡まった木の葉を優しく取り除いてくれるとき。転びそうになったら肩を掴んで支えてくれる時。
そのどれもが、ガラス細工に触れるかのような―――一切の力を感じない、真綿のような心地のする触り方だった。
ゆりあは少し悔しそうに眉をひそめて自分の手を見つめた。
細くて今にも折れそうな、頼りがいのない手だった。
「まあそりゃあ、女と男じゃ違うって柘植さんはわかってるし、手加減するでしょ」
「ええ、逆に男の方と同じ扱いでは困ります」
しおらしくなったゆりあに慌てて馨と雛子がそういうと、ゆりあは「そうね」と眉を下げたまま笑って、「もう油の温度いいんじゃないかしら」と鍋に視線を移した。
雛子と馨がドーナツを順に揚げていく横で、ゆりあは柊一のことを思い浮かべていた。
(…あの日以来、送り迎えの時あまりしゃべってくれなくなったわね)
柊一は壱誠の襲来から、ゆりあが話しかけても心ここにあらずといった感じで、生返事しかしなくなっていた。
何を考えているのか、どこを見ているのか―――ぼんやりとした顔でずっと何かを思い詰めていた。
ゆりあが文通の文を届けた時も、「少し返事が遅くなる」と言われて2日ほど返ってこない。
ゆりあが習い事や勉強の合間に庭を訪ねても、柊一の姿はなく、朝と帰りの送迎以外で顔を合わせることがなくなっていた。
ほかの使用人に尋ねると、いつもゆりあが学校に行っている間に庭仕事を終えてしまい、ゆりあを迎えに行って連れて帰ってくるとすぐに他の仕事へ出かけて行って深夜まで帰ってきていないらしい。
意図的に避けられているような気がして、ゆりあは胸が詰まるような切なさと、どうして急にそんな態度をとるのかと怒りを抱えていた。
(…柊一のくせに私を避けようなんて、…避けようなんて)
ふと涙が滲み、ごまかすようにまばたきを数回して、揚がったドーナツにチョコレートをつけていく。
そこでゆりあははっとひらめいた。
避けられるのなら、こちらから用事を作って待っていればいい。
「二人とも!これ、一個柊一にあげてもいいかしら!」
急に元気になったゆりあに驚く二人をよそに、ゆりあは手早く皿をとってできたてのチョコレートドーナツをひとつ取る。
「今夜、柊一が帰ってくるまでこれを持ってじっと部屋の前で待つのよ!」




