13 婚約者
月末に文化祭を控えたゆりあたち白藤女学院の生徒たちは、授業中もそわそわと落ち着かない様子だった。教科書で隠しながらレシピ本を見ている者もいれば、ノートにカップケーキのデコレーションのデザインを描いている者もいる。
ゆりあはドーナツにかけるチョコレートをどこの会社にするかで迷っていた。
学生の文化祭といえど、半端な品質のチョコレートでは舌の肥えた女学院の生徒たちはもちろん、父兄にも売れないだろう。
(やっぱりベルギーから取り寄せようかしら。でも急だし、文化祭用だからそんなに大量には仕入れないし、迷惑になるかも…)
ううんと首を捻って、授業終了の鐘の音をぼんやり聞いた。
「ゆりあさん」
「雛子」
「考えたんですが、ドーナツを半分に切って、生クリームを挟むのはどうでしょう?」
「あら美味しそう!いいわねそれ」
雛子はゆりあの輝く目を見て嬉しそうに微笑んだ。
あの騒動から二か月、雛子は心身のバランスを崩し、時折学校を休むようになった。馨とゆりあも足繫く見舞いに通い、時に祖父に対して共に怒り、時に共に悲しんだ。その甲斐あってか、雛子は少しずつ回復していった。
雛子が楽しく学校生活を送っている様子を見て、ゆりあはどこかホッとしていた。雛子に頼まれたとはいえ、浩二を騙して真相を暴き、結果的に雛子を傷付けることになってしまったからだ。
「お、生クリーム挟むの?うちの仲良しさんに乳製品の会社いるよ。いいやつ貰っておこうか?」
「あら馨」
凝り固まった肩を回しながらゆりあの机に近付いてきたのは馨だった。
手には英語で書かれたレシピ本がある。馨は時々こうして英語の本を読んでは、「日本に住んでると英語忘れそうになるからね」と笑っていた。馨の母はすっかり日本になじんで、普段から日本語を話すらしい。必要があれば英語も話すし、時折在日米軍基地に赴いて通訳の仕事もしているが。
「僕も考えたんだけど、キャラメルソースを表面につけて固めたやつとか美味しそうじゃない?」
「美味しそうですね!一度試作してみたいところですが…お二人ともご予定はいかがですか?」
「私は明日お茶のお稽古があるから、週末ならいいわよ。金曜日の放課後はどう?」
「僕はそれでいいよ。雛子は?」
「私も大丈夫です」
「そう、じゃあうちのキッチンでやりましょ。お母様に話しておくわね」
そう言ってゆりあは教科書とノートを閉じて鞄に仕舞い、立ち上がった。
「じゃあ、先に帰るわね」
「今日は随分急ぐんだね?お稽古かい?」
「違うわ、あれ見て」
ゆりあが窓の外を指すので、馨と雛子はその指先を追って外を覗き込んだ。
学校の正門前で、いかにも機嫌の悪そうな顔をした柊一が腕を組んで立っていた。馨はうわぁと苦笑いし、雛子は「まあ」とクスクス笑った。
柊一は苛立った様子でトントンと靴の爪先を上げ下げしている。リズミカルに叩かれる正門前のアスファルト。
「勝手に早く着いておいて、私が待たせると怒るのよ」
何様のつもりかしら、と文句を言いながらも、教室の扉へ向かうゆりあの背中はどこか機嫌がよさそうだった。雛子と馨は顔を見合わせ、くすくす笑い出した。
「毎日迎えに来てくれて嬉しいくせに、ゆりあはほんとに素直じゃないねえ」
「ええ、本当に」
ぱたぱたと急ぎ足で螺旋状の中央階段を駆け下り、玄関ホールで上履きを脱いで、靴箱から取ったローファーに履き替える。
正門で苛立ちながら待っていた柊一の元へ駆け寄って、「早すぎるのよ!」と息を切らせて言うと、柊一は「おしゃべりしてねえでさっさと帰って来い」と言った。
二人は並んで歩き出した。六月の湿った匂いが漂う。空は今にも雨が降り出しそうな曇天だった。
———あのパーティーから二か月。つまり、柊一とゆりあの関係が始まって、柊一が従者代わりとなってから二か月以上経った。
その間特に二人の関係は変わるところなし。登下校を共にし、休みが合えば遊びに出かける。
先週は銀座のパーラーに行った。初めてクリームソーダを飲んだ柊一は、舌の痺れる感触とバニラアイスの優しい冷たさの虜になり、大層気に入った様子だった。ゆりあはビスケット缶をひとつ買い、すみれへのお土産に持って帰った。
遊びに出かけたときに限り手を繋ぐ。もうゆりあはそれぐらいでは照れなくなった。むしろ早く行こうとゆりあから柊一の手を握るようになった。
ここまでは特段進展のない二人だったが、ゆりあの気持ちは確実に変容し始めていた。
登下校中、柊一はあくまでも護衛役だ。周りの学生の目もあるので、手は繋がない。
それはゆりあも同意していることだったし、当然そうすべきだと思っていた。
———思っていたのだが。
(どうしよう、手を繋ぎたくなってきたわ…)
ここ最近のゆりあは、休日デートの時だけでは飽き足らず、登下校中も手を繋ぎたいと思うようになっていたのだ。
隣に柊一がいながら手を繋いでいないという状況に、なんともいえない心細さや物足りなさ、切なさを感じていた。
柊一はまるで気付かないようで、周囲の家の庭を見ては、「あの家手入れサボってんな」などと失礼なことを呟きながら、歩道にはみ出した枝木を邪魔そうにくぐったりしている。
(もう!柊一も少しくらい手を繋ぎたがってくれたっていいのに!)
柊一は自分から手を繋がない。近頃はゆりあが率先して手を繋ぎにいくためか、もうリードの必要がないと考えたのだろう。
あくまで柊一にとって自分との関係は契約に過ぎないのだろうな、とゆりあは心の中で溜息をついた。デートもゆりあから誘うばかりで、柊一はそれを断ることこそしないが、柊一の方からデートをしたがる様子は今のところない。その事実を寂しく感じているものの、ゆりあは変にプライドの高い女であるので、柊一からも誘って頂戴などと口が裂けても言い出せないのだった。ゆりあが言わずとも柊一からデートに誘ってほしいのだ。
かたや柊一は、庭師の仕事にもう一つの仕事、そして従者の仕事が増えたので、ゆりあが想像しているよりも忙しい毎日を送っていた。なるべくゆりあと休みの日を合わせるよう努力しているが、それで精一杯で、自分が手を繋ごうとしないことやデートに誘わないことでゆりあを悩ませているなどとつゆほども思っていないのだ。というより、そこまで気を回す余裕がないのだが。
ちらり、とゆりあは自身の右側にいる柊一の、左手を見つめる。
さりげなく学生鞄を左手に持ち替えて、右手を空けた。
そして少しずつ、気付かれないように柊一に身体ごと近付いていく。
右手の指を伸ばせば彼の左手に届くであろう距離まで近付いて、そっと人差し指と中指を伸ばした。
(ちょっとだけ、ちょっとだけよ、一瞬握ったら、離すから…)
早鐘を打つ心臓を誤魔化すように咳払いをして、ほんの数ミリの空間を、慎重に慎重に、針に糸を通すかのような緊張感を持って縮めていく。
あと少し。初冬の水溜まりに張る薄氷のようなわずかな隙間が、もう少しで埋まりそうな、その瞬間———
「あっ」
「フェッ!!?な、なに!?」
柊一が声を上げて立ち止まった。ゆりあは慌てて手を引っ込め、柊一の顔を見上げた。
「家に誰か来てんぞ」
「え?おかしいわね、今日は来客の予定は…」
いつの間にか自宅のすぐ近くまで来ていたのか、柊一が見つめる先は御堂家の正門であった。
正門前にいかにもな黒い高級車が停まっている。ロールス・ロイス社のシルヴァークラウドⅡである。
運転席から長い脚がすらりと伸びて無意味に空を掻き、タカンッと靴底を鳴らして地に降ろされる。
グレーに小さなチェック柄のスーツ。流行りの形とデザインであることから、若い男だとすぐにわかった。腰から頭まで鳥肌が駆け抜けていくように感じて、ゆりあは思わず「ヴ」と唸った。
ふんわり柔らかく陽の光が透ける、少し癖のある茶髪。
目にかかりそうな前髪はセンター分けでゆるく毛先が後ろに向かってカーブしている。
「ああ、ちょうどよかった!」
若い男は車のドアをバンッと閉めて、ゆりあを見つけると花が綻ぶように笑い、軽く手を振ってきた。
「知り合いか」
「いいえ。よくは知らないわ。でも特徴からしてアレでしょうね」
ゲェ、と気味の悪い虫でも見たような顔をして、ゆりあは引きつった笑みで手を振り返した。
男はゆりあの横の柊一になど目もくれず、ただ一点ゆりあの顔だけを見つめてらんらんと駆け寄ってくる。
「ゆりあさん。婚約者として会うのはこれが初めてだね」
そう言って男は———ゆりあの婚約者は、かぶっていたハットを取って軽くお辞儀をした。
「改めて、京極 壱誠です。———君の夫になる男だよ」
壱誠はそう言って顔を上げると、ようやく目が合った柊一に向かって、フ、と嘲笑ともとれる笑みをひとつ贈った。
柊一はただでさえ深く刻まれた眉間の皺を更にグッと寄せ、目の前の優男をじろりと睨みつけるのだった。




