第89話 絳祐
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酷く体が重かった。意識が目覚めている自覚はある。だが、寝返りを打つのも億劫で、ずっとこのままの状態でいたいと充は思っていた。
「動きたくない」と思い始めて、どれくらい経っただろうか。
さすがに眠っているのも詰まらなくなって、目だけは開けてみる。するとそこには真っ白な世界が広がっていた。だが、雪景色ではない。どこを見ても、真っ白で何もない。あるのはただ自分だけ。
「えっと……。ここ、どこ……?」
充はやっとのことで体を起こすと、そっと呟いてみる。声は空間に吸い込まれるように消えてしまい、いつもと違う感覚に充は戸惑った。
「……桃花さん?」
少し前まで一緒にいたはずだが、桃花からの返事はない。
「茜? 沙羅?」
誰も答えない。
「何で……」
充は唐突に訪れた孤独に恐怖を覚え、自分自身を抱きしめた。
「僕、どうなっちゃったの……?」
桃花と共に、沙羅の邪気を浄化していたところまでは覚えている。しかし、だんだんと景色が晴れ、黒い世界から沙羅のいたあの屋敷があった場所が再び見えたときに、充は強い眠気に襲われた。桃花が「体の限界を迎えたのだ――」と言ったのが遠くで聞こえたが、それから充は意識を手放してしまい、どうなってしまったのか全く分からないのである。
(こういうときは冷静にならないと……。そうだ、一つずつ確認しよう。桃花と一体化していたけど、僕の体は戻ったのかな?)
充はそっと自分の髪に触れてみる。邪気を払ったときは桃色の長い髪になっていたが、短くなっていつも触れている己の髪に戻っていた。
(着物も、僕のものだ。藁沓とわら蓑はないままだけど……)
沙羅の過去の世界にいってなくなったものは失ったままだが、桃花と一体化する前までの状態には戻ったらしい。
ほっとはしたが、それはそれで心細かった。
(桃花さんと一緒にいたときは一人じゃなかったけど、今は本当に一人で……。ここからどうしたらいいんだろう……。そもそも、この世界から抜け出すことができるんだろうか……)
確認するものがなくなってしまい、手持ち無沙汰になった充は再び孤独感に襲われた。それを紛らわせるように、膝を抱え背中を小さく丸める。
(誰か助けに来てくれるかな……。それとも、僕のことなんて忘れてしまっていたりして……。いや、駄目だ、駄目だ。こんなことを考えてちゃいけない……)
つい暗い想像をしてしまう。充はそれを振り払うように、ぶんぶんと首を横に振ったとき、自分の肩に何かが乗った。
(え……⁉)
自分以外いない世界に、誰かがいる。充ははっとして振り返ると、そこには肩まである癖毛の赤い髪をした男が、これまた真っ赤な着物を身にまとって立っていた。周りが白いため、彼の赤が一層目立つ。
「……あなたは?」
何となく尋ねると、柔和な笑みを浮かべたその人が優しい声が降ってくる。
「私は、絳祐と申します」
充は小首を傾げつつ、ぼんやりとその人を見た。誰かに似ているが、似ていないような気もする。しかし、名前はどこかで聞いたことがあった。
すると彼はもう一言付け加える。
「『茜の父』と言ったら分かりますか?」
「茜の、お父さん……?」
僅かな間があったのち、充はようやく目の前にいる者が誰であるかを理解した。
(ちゃんとしなくちゃ……!)
充はそう思うと、重い体を動かし何とか絳祐のほうを振り向くと、正座をして彼を見上げた。
「あ、あの、えっと、僕、薬屋葵堂の養子の充と言います。初めまして、絳祐さん。茜……さんには、いつもお世話になっております」
「はい、初めまして。よかった、あなたは私のことを知っている人ですね」
そう言ってにっこりと笑う。充はそれをぼんやりと眺めていた。
さすがに桜のような、この世の者とは思えないほどの絶世の美人ではない。しかし、あっさりとしたきれいな顔立ちに、この柔らかな笑顔を浮かべられたら、誰もが虜になってしまうのではないかと思うような、物腰の柔らかなひとだった。
(茜のお父さんって、こういうひとなんだ……)
自分の本当の父親とはまるで違う、と思ったときだった。それと同時に充は義母が今朝「絳祐さんって、今も生きているか死んでいるかも分からない状態なの」と言っていたことを思い出す。
(生きているか、死んでいるか分からないってところに、絳祐さんがいるってことは、僕はもしかして――……)
充がさーっと顔を青くすると、絳祐は何かを察したように、充の視線に目を合わせて優しく問うた。
「もしや、私が死んでいると話を聞かされましたか?」
「え、ええ、近いことを……」
「そうだったのですね。事情が事情ですから、皆がそのように思うのも無理のないことでしょうけれど、私は生きておりますよ」
「そうなんですか?」
「はい。絶対的な安全とはいえないのですが、幸運なことにある方々に保護されまして、その方々の力を借りながら生活をしているところです」
誰も茜の父が生きているかどうかを知らなかったため、それを聞いて充はほっとする。この話を聞いたら、茜はもちろん、皆が希望を持てるだろう。
しかし充にはもう一つ疑問があった。
「でも、どうしてここに……?」
邪気の元が絳祐の血であることは聞いているが、それと目の前に見えていることが上手く繋がらない。
充の疑問に対して、絳祐はゆったりとした声で説明する。
「実を申しますと、今、充さんに見えている私は、本来の私ではありません」
「本来の絳祐さん、ですか……?」
「ええ。今あなたと話をしている私は実体がないのです。あなたに実体がないのと同じです」
(そういえば、桃花も同じようなことを言っていた……)
しかし、術にあまり詳しくない充は苦笑を浮かべ、首を小さく傾げた。
「分かるような、分からないような……」
「ふふ、分からなくても問題はありませんよ。ただ、私がここにいるのは邪気の中にあった、私の気の通してあなたに語り掛けているのです。そして、その気が保たれる時間もあまりありません。最後の力を使って、あなたを元いた場所へ帰します」
絳祐の言葉に、充はぱっと表情を明るくする。
「僕は帰れるんですか?」
「もちろんです。さあ、私に掴まって」
絳祐はうなずくと、充に手を伸ばす。ようやく元の場所に戻れることに安堵した充は、その手を掴もうとした。だが、ふと茜のことを思い出して、そっと引っ込める。
「あ……」
「どうしましたか?」
「茜に会わなくていいんですか? きっと会いたがっていると思うんですけど……」
父親がどうなったか、茜は気にしているはずである。ここで会うことができたら、間違いなく喜ぶに違いない。そう思って言ったのだが、絳祐は少し困ったように笑った。




