第88話 和解と雪の上の充
「茜……?」
沙羅の戸惑う声を聞きながら、茜は涙を流していた。静かに泣いていたが雫が頬を伝い、沙羅の肌に触れたことで気付いたのだろう。「どうして泣いているの……?」と聞いてきた。
「泣くよ……。なんでそんなに自分を責めるんだ……。あたしにとってそれが悲しくて仕方がないんだ……」
沙羅が、茜に嫌な態度を取るようになったのは、嫌われるため。
「茜の父に酷いことをした男の子ども」だから、茜の愛情を受けるべきではないと思っていたからである。
「沙羅は何も悪くない」
茜は沙羅の頬に、自分の頬を擦りつけるようにして呟く。
「でも……」
「子どもがした罪を親が背負うなら分かるが、子どもが親の罪を背負うのは間違っている」
「だけど……」
沙羅はまだ納得しない。
茜はそっと体を離すと、沙羅の顔を覗き込んだ。難しい顔をしている。
「他に何が気になるんだ?」
茜が問うと、沙羅は何度か言い淀んだあと、俯きながら小さな声で言った。
「私の過去を……見たでしょう?」
「見たよ」
天つ日の術の中にいた沙羅も、茜と充が自分の過去を見ていることに気づいていたのだろう。隠すことでもないと思ったので、茜ははっきりと答えた。それと同時に沙羅の体に触れているところから、彼女が強張るのが分かる。
「過去を見たからと言って、沙羅に対する気持ちは何も変わらない」
茜がそう言うと、沙羅は絞り出すような声で言った。
「私は誰にも好かれない子なんだよ……?」
茜は自分が見た沙羅の過去を思い出す。
父に疎まれ、使用人たちは彼女を見てくれない。屋敷の主人が大事にしている弟ばかりに優しさや愛情が注がれ、沙羅と父親の間にあったのは、厳しい躾けのやり取りのみで、使用人たちからはいてもいないように振舞われる始末だ。
(そういえば、母親の姿もなかった)
茜が見た沙羅の記憶の中には母親が一度として出てこなかった。もしかすると、それほどまでに関係が薄かったのかもしれない。
(沙羅はあの大きな屋敷で、ずっと独りぼっちだったんだ……)
茜は沙羅の両手をぎゅっと握りしめると、「あたしは沙羅のことが好きだよ」と言った。
だが、沙羅は顔を上げ、疑うように聞き返す。
「何で? 私は茜にずっと嫌な態度をとっていたんだよ? それに女なのに、勉強をしたがるような子なんだよ?」
父親に言われていたことがずっと引っかかっているのだろう。茜は「馬鹿だね」と呟くと、優しい声で言った。
「あたしに対する態度は、沙羅があたしに対して申し訳ない気持ちでいたからだろう? そんな気持ちは持たなくていいんだ。あたしの父が人の術にかかったのは、沙羅のせいじゃないよ。それにね、勉強がしたかったらすればいい。あたしの知っている葵堂の時子は、女だけど薬の知識は豊富だからね。皆、時子に助けられている。沙羅、あんたもそうだろう?」
すると沙羅の中に変化があったのだろう。暗かった表情が少しだけ興味が引かれたようなものに変わる。
「茜は……私の態度を許してくれるの?」
「うん」
「勉強をしていいの?」
「当り前」
「本も読んでもいいの?」
「もちろん」
「茜は……、どうして私に良くしてくれるの?」
その問いに茜は微笑んだ。
「あたしは沙羅のことを家族だと思っているから」
「家族……?」
「そう。鷹山に共に住む家族。あたしはあんたが大切なんだ。だから沙羅、戻ってきな」
沙羅は一瞬驚いたような表情を浮かべると、次第に涙をこらえるように、ぐっと下唇を噛むと、うん、うん、と何度も大きくうなずき、一言お礼を言った。
「ありが……とう……」
すると沙羅の緊張がようやく解けたのか、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を流し、大声を出して泣いた。
茜は初めて年相応に泣いてみせる沙羅を優しく抱きしめる。
この思いが、今度こそちゃんと伝わるようにと願いながら。
「感動の抱きしめ合いをしているところで悪いんだが」
沙羅の涙がある程度おさまったところで、水を差すように天つ日が声を掛けた。
「何だよ、天つ日」
茜はむすっとした表情を浮かべて言った。言われたほうも嫌そうな顔をしている。
「だからちゃんと『悪い』と断りをいれただろうが。それより充が起きないんで、山小屋に運ぶのを手伝ってくれないか?」
沙羅のことでいっぱいですっかり忘れていたが、充もいたのである。そもそもどこにいたのだろうかと思うと視線を巡らせると、茜の背中側から少し離れたところで横になっている充の姿があった。
茜は沙羅と顔を見合わせると、二人で雪の上を数歩移動して充の傍に寄る。見たところ怪我もなく、ただ気持ちよさそうに寝息を立てているように見えた。
「大丈夫なのでしょうか?」
沙羅が心配そうに言うので、茜は「ただ寝ているだけなんじゃないのか?」と天つ日に聞く。だが予想とは裏腹に、あまりいい返事が返ってこなかった。
「それならいいんだが……」
「天つ日……?」
「……」
黙っているので、茜は声を硬くして尋ねる。
「まさか充が起きないなんてことないよな?」
「……我には分からぬ」
「何故?」
天つ日の無責任ないい方に茜は責めるように聞き返したが、天つ日は気にしたふうもなく当たり前のように答えた。
「我も全知の存在ではない。こちらに戻って来れるかどうかは充次第だ」
「そんな……」
「とにかくこのまま寝かせておくのは可哀そうだ。体も冷えるだろうしな。山小屋に連れて行く」
天つ日はいつもと変わらぬ静かな声で言うと、充を抱きかかえる。そして自身の体ごとふわりと浮き上がり、ゆっくりと山小屋の中へと向かった。その後ろを、茜と沙羅が手を繋ぎながら歩いてついて行く。
「充さん……」
沙羅が天つ日の背中を追いかけながら心配そうに呟くので、茜は彼女を励ますように「大丈夫だ」と言う。だが、本当に大丈夫なのかは分からない。
(充のことを何かが守っているみたいだったから、大丈夫だと思ったんだが……)
本来、強い邪気の中にいて人間が無事でいられるはずはないが、充があの中でまるで平然としていたので問題ないと思ったのである。
(もし、大丈夫だと思ったのが私の思い過ごしで、沙羅を助けるのと引き換えに充が戻らなかったとしたら――)
茜は起こって欲しくない未来を、首を横に動かして振り払う。
(充……。どうか、戻って来てきてくれ……)




