第86話 掴んだ手
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充が桃花と話しているころ、茜は右も左も分からない黒い靄の中を沙羅の名を呼びながら歩いていた。
「沙羅! 沙羅、どこだー!」
しかしただの靄ではないので簡単には進まない。靄が体に当たるたびに、砂に当たったような痛みや皮膚が焼けつくような痛みを感じる。
(体中が痛い……。酷い邪気だ……。充は何かに守られていたみたいだから大丈夫そうだが、妖術を使って体も強化できない以上、このままだとやられるな……)
山小屋で異変を察知したとき、妖術を使って体を強くすることができたが、今は沙羅の過去を見せる世界に来ているせいか、術を使うことができないのである。
そのため、茜はただただ耐え忍ぶしかない。
「沙羅! どこにいるんだ!」
茜は声の限りに叫ぶ。しかし返事はない。
(気配で沙羅を探そうにも邪気が邪魔をしていて分からないし……。沙羅、一人で泣いているんじゃないだろうか……)
茜は心の中で呟くと、ふと鷹山で過ごしてきた日々と沙羅と彼女の父親とのやり取りが重なって涙腺が緩んだ。慌てて手で目元を擦る。
(沙羅は知っていたんだ。あたしが赤鬼の子であることを。だから、ずっと助けるのを拒んでいたんだ……)
沙羅のことを考えれば考えるだけ悲しくなってくる。
何故心根の優しい者が、こんなに悲しい思いをせねばならないのだろうか。問うても誰も答えてくれるわけではないが、問わずにはいられない。
(とにかく連れ戻さなくては。沙羅はこんなところにいていい子じゃない。ちゃんと、人のいるところで生活しなくちゃいけないんだ……)
するとそのときである。
黒い靄の中に、ちらりと白い手の甲が見えた。
「……っ!」
茜はすかさず手が見えた辺りの靄のなかに右手を突っ込む。しかしすぐに感触はない。
(絶対沙羅の手だ! 間違いない!)
無我夢中になって手さぐりに探し、やっとのことでその手を掴んだ。
「沙羅!」
沙羅の体の周りが特に邪気が強いのか、茜は掌に焼けるような痛みを感じたが、構わず靄から引っ張り出すように力を入れる。
すると、暗闇の中ではあるもののだんだんと沙羅の体がはい出てくるのが何となく分かった。
「良かった。無事だな?」
ほっと息をつくと、「離せ……」と俯いたまま奇妙な声で言われる。
沙羅の声ではあるが、別の声が重なっているのだ。どうやら男の声のようである。
邪気が喋っているのだろうかと思ったが、茜は構わず自分よりも小さくて柔らかな手を、手を焼けることも厭わずにぎゅっと掴んだ。
「離さないよ」
沙羅の心に届いて欲しい。その一心で言った。
だが、返ってきたのは沙羅の悲しい言葉だった。
「いいから離すがいい。見たであろう、私の醜い姿を。私に生きる意味はない。親にも必要とされていない。弟にも疎まれる。私の居場所などない」
茜は首を振り、必死に否定する。
「そんなことはない! 沙羅の居場所はここにある! あたしは沙羅を大切に思っている!」
すると沙羅の後ろの靄の中に、別の人物の姿がゆらりと現れた。
茜は訝しげに眺めたあと、はっとする。その人物が誰であるかを認識すると愕然とした。
「……父さん?」
それは茜の父親、絳祐の姿だった。
だが、目があるはずの場所はまるで目玉がくりぬかれたようにぽっかりと空いて、空洞になっている。茜はぎりっと奥歯を噛んで、それを睨みつけた。
「この野郎……!」
「お前にとって私は父親の憎き敵だ。何故手放さずにいられる? どうして助けられる?」
沙羅はそう言いながら、にたりと笑う。
邪気がそうさせているのだろう。茜の中で怒りが沸沸と沸き上がり、激しい衝動に駆られる。
(沙羅が思っていないことをいつまでも話させるなら……、父さんをこんなふうに縛り付けておくなら、あたしがお前を全て壊してやる……!)
茜がぎゅっと拳を握り、攻撃を仕掛けようとしたときだった。
沙羅の背後にある奥から、何か光るようなものがちらりと見えたのである。
(何だ、あの光は……?)
幻だろうか。
そう思ったが、再びきらりと光りだんだんと大きくなってくる。それも桃色の強くて頼りになるような光だ。
さすがの邪気も気づいたようで、沙羅の体を振り向かせ光を確認すると慌てふためいた。
「馬鹿な……! 浄化できる者がここにいるはずがない!」
邪気がそう言ったので、茜はあれが浄化の光であることを知った。
光はだんだんと強くなっている。きっと沙羅にまとわりついた邪気が消えるのも時間の問題だろう。
「観念しなよ」
茜が邪気に対して言う。だが、ここで終われないと思った邪気は、「……ちっ」と悪態をつき、茜の手を振りほどくと沙羅の体ごとどこかへ行こうとしたのである。
「こら、待て!」
茜は咄嗟に沙羅の腰に腕を絡め、動きを封じる。
「往生際の悪い奴め……!」
しかし沙羅の体にまとわりついている邪気はとても強いのか、沙羅の体にくっつけている茜の顔や腕、胸の辺りの肌をどんどん焼いていく。
「ふんっ、お前もただでは済まないぞ」
沙羅の中に入った邪気に笑われるが、茜は冷酷な笑みを浮かべて言い返した。
「望むところだ」
邪気が茜の腕の中で暴れている間も、桃色の光がこちらに迫ってくる。
(邪気を逃さないように耐えられるか、それともあたしが先に限界を迎えるか……)
茜は温かな光をぼんやりと眺めながら思う。その間にも、邪気が茜の手を振りほどこうをあの手この手を使うが、彼女は全く動じなかった。
(どうなるかは分からない。でも、あたしは沙羅を手放さない――)
桃色の光が包み込むように広がったとき、茜は意識を手放した。




