第78話 少女の正体
(そうだった……。あのとき「助けてほしい」と思ったときに、義父さんが来てくれた。それが僕にとってどれだけ有難いことだったか……)
自分ではどうしようもできないときに、誰かが助けてくれることの大きさを自分がよく分かっている。
充は掴んでいた茜の腕をそっと放すと、「ごめん」と呟いた。
「茜の言う通りだ。あの子を助けてあげて」
「分かってくれたならそれでいい」
茜はふっと笑ってそう言うと、少女とその父親がいる部屋へ入る。
一歩、二歩、三歩と進み、もう少しで沙羅に触れられそうな位置まで来たときに問題が起きた。まるでしゃぼん玉のような、透明であり光の加減で七色にも見える膜に阻まれて、茜はそれ以上進むことができなかったのである。
「進めない?」
彼女は戸惑いつつもその膜に触れ、感触を確かめる。そして扉を叩くように、拳で膜を叩いてみたり、押してみたりするがびくともしない。
さらに不可思議なことに、ここまで茜が堂々と動いているにも拘わらず、父親と少女はこちらには見向きもせず、二人のやり取りを続けていた。
(何なんだ、これ……)
何をやっても屋敷の人間に気づかれないのは、不法侵入したことを怒られないで済むという点では有難い。
しかし、あちら側が充と茜を認知していないというのはおかしな話である。どういうことだろうと思い、充も茜と同様に部屋の中に入ろうとする。
(あ、そうだ。藁沓……)
茜の腕を掴んだときにその辺に置いたなと思い、廊下を見るが見当たらない。
(え……?)
廊下にはそれを隠すような場所はない。しかしどんなに熱心に辺りを見渡しても持って来た藁沓を見つけることはできなかった。
おかしなことはそれだけではない。先ほどまで廊下についていた茜の足跡も消えていたのである。
(人が廊下を拭きに来た気配なんてなかったのに、どうして……)
使用人が拭いたわけでもなければ、充が拭いたわけでもない。
何か不可解なことが起こっている。そう思った瞬間怖くなった充は、部屋に入り茜の隣に歩み寄った。
「ねえ、茜。ここ、変だよ……」
よく分からない状況に戸惑って呟く。一方の茜は確信したように言った。
「そうだろうな。あたしたちは誰かの術の中にいるのだから」
「術?」
充が眉を寄せて聞き返すと、彼女は膜の向こうに視線を向けたままうなずいた。
「ああ。人の術なのか、妖術なのかは分からない。だが、術を用いて人や妖怪を別の空間に入れることができるんだよ。まあ、よっぽどの力の持ち主でないとできない話だ。見たところ、あたしたちの場合は精神だけがこの世界に入っているみたいだね」
「益々《ますます》よく分からないんだけど……」
もう少し分かりやすく説明してほしいと思っていたときである。
少女の父親の声が部屋に響いた。
「そこで反省していろ、沙羅」
そう言って父親は本を持ったまま、部屋を立ち去り部屋には少女だけが残った。
「さら……? 今、沙羅って言った?」
「ああ……」
「どういうこと? 背も小さいみたいだったし、髪も黒かったけど……」
充が知っている沙羅の背丈は茜の胸くらいで、銀星の血の影響で髪は白くなっている。
しかし「沙羅」と呼ばれた少女は、茜の腰位の背丈で、髪は黒で誰かに結ってもらっているのか、可愛らしく髪が編み込まれていた。
もう一つ気になることがある。少女と男の関係が親子であれば、彼は沙羅の父親であるということだ。
そう考えると、ここは沙羅のいた家であり、彼女の父親の屋敷ということである。
充が茜のほうを向いて「この子が沙羅なら、あの男の人が沙羅のお父さんってこと……?」と聞くと、彼女は沙羅がいるほうを見ながら一言「消えたぞ」と呟いた。
「え?」
「『沙羅』が消えた」
何を言っているんだと思い、もう一度部屋の中を見ると茜が言った通り沙羅の姿はもうどこにもなかった。
「いない⁉」
充が戸惑い辺りをきょろきょろ見回すと、茜が唇のあたりで人差し指を立て、静かにするように仕草をする。
「どうかしたのか?」
普通に話したところで屋敷の人間に気づかれないことは、茜もすでに承知のはずである。それにも拘わらず、何故静かにするのかと思うと、彼女は「声が聞こえた。こっちだ」と言う。
充には何も聞こえなかったが、彼女には聞こえたらしい。そして躊躇なく一歩踏み出した。
「茜⁉ それ以上は進めないはずじゃ――」
先ほどしゃぼん玉のような膜があり、進めなかったはずである。だが、膜があったことが嘘のように、当たり前に部屋の中に入れてしまった。
「大丈夫みたいだ。早く来い」
「ええ……?」
充は訳が分からないまま、茜の後ろをついて部屋の中を横断し、奥の廊下に出る。するとそれまで天気が良かった空が急に翳り、厚い雲に覆われたかと思うと強い雨が降ってきた。
「雨?」
先ほどまできれいな青い空が見えており、雨の降る雰囲気などこれっぽっちもなかったため充は小首を傾げる。
変わったことが起こると立ち止まってしまう充に、茜はため息交じりに言った。
「いちいち気にしていても仕方がない。充、行くぞ」
「う、うん」
ここで茜とはぐれてしまうと、大変なことになりそうだと思った充は、慌てて追いかけた。




