第77話 男の怒鳴り声
充と茜は辺りを見ながら、屋敷の敷地内を歩き始める。
まず、庭の奥には松の木があるため、最初はその陰に隠れ、誰も見ていないことを確認出来たらさっと移動し次第に屋敷に近づいた。
次に、身を隠せる松の木が無くなったところで、今度は身を屈め、きれいに整えられた皐月に陰に隠れて少しずつ前に進む。
しかし屋敷が目の前に迫り、今にも縁側のところから入れそうだというくらい近づいたとき、充はある違和感に気づいた。
(人の出入りがない……?)
立派な屋敷であれば、そこで働いている者たちもいるし、屋敷の警護をする者たちもいるはずである。だが開いている縁側の廊下を通る者もいなければ、屋敷の外にいるであろう警護をする者たちの声や歩く音もしない。
充はそれを確認するように、皐月の影から首を伸ばして門のあたりをもう一度見る。
(やっぱり、誰もいない)
充は首を引っ込めると、屋敷に人を感じられない理由を考え始めた。
(何故だろう。もしかしてすでに僕たちに気づいていて、捕まえる機会を伺っている……とか?)
充は地主の屋敷で経験したことを思い出し、身震いをする。
(とにかく見つからないようにしないと……)
しかしその一方で、何を思ったのか茜が皐月の影から立ち上がり、ずんずんと屋敷のほうに向かって歩き出したのである。
「茜、ちょっと⁉ どこに行く気⁉」
小声だが強く尋ねる。
だが、茜は気にしたふうもなく「屋敷の中」とあっさり答えた。声もいつも通りのため、隠すつもりがないらしい。充はびくびくしながら皐月の影から出たり入ったりして茜に言う。
「見つかったらまずいだろ!」
「だが、沙羅の姿がない」
そう言って遠慮なく首をきょろきょろと動かし、沙羅がいないかと大胆に捜し始める。
「屋敷の中にいるとは限らないじゃないか!……わあっ……って、皐月か……」
充は自分で触れた皐月に驚くほど神経がピンと張り詰めているというのに、茜はまるで「屋敷の人間に見つかることなどない」と思っているように振舞っていた。
「外にいるとも限らないだろう」
「それはそうだけど……」
茜の言う通りではある。屋敷の外に沙羅がいるとは限らない。
しかし、屋敷の人間に見つかったら沙羅を捜すどころではなくなってしまう。
すると茜は充をじっと見て言った。
「確認したいことがあるんだよ」
茜の言っていることが分からず眉を寄せる。
「どういうこと?」
「この場所に少し覚えがあるんだ」
茜が屋敷のほうを見ながら懐かしそうに、しかし少し困惑した雰囲気も混じりながら呟く。
するとそのとき、屋敷の中から男の怒鳴り声が聞こえてきた。
「やっぱり人がいるじゃないか!」
充が咄嗟に隠れたが、茜は「そっちか」と言って声のするほうへ向かう。
「え……、あ、茜……?」
足音が遠のいて行くので、どういうことだと思って皐月の影から顔を出すと、縁側に先ほどなかった裸足の足跡がくっきりと付いていた。茜が通った証拠である。
「……もう!」
充は意を決すると、周囲を警戒しながら皐月から身を出し、そそくさと縁側に入る。わら蓑は何故か脱がされていたが、足元は藁沓を履いたままである。
茜も履いていたはずだが、いつも間にか藁沓を脱いだらしい。そのため縁側には裸足の足跡が付いている。多少汚れても構わないということなのかもしれないが、充としては藁沓のまま屋敷に入るのはさすがに気が引ける。
充は縁側でさっと藁沓を脱ぐと、それを持って茜の足跡を辿った。
(どうか人に見つかりませんように……!)
充は祈りながら屋敷の奥へ入って行く。最初は茜の足跡を頼りに歩いていたが、怒鳴り声が近づいて来るにつれて耳を頼りに近づくことができたため、目は周囲の状況把握に集中することができた。
「充、こっちだ」
屋敷の角を何度か曲がった先に、赤い髪の茜が廊下で立っており充を手招きしていた。
「立ち聞き?」
充が聞くと、茜は人差し指を口に当てて「いいから、静かに」と言う。そしてそっと襖から顔を出して、部屋の様子を覗き見始める。
(立ち聞きに覗き見って……、あんまりしたくないんだけどな……)
充は小さくため息をつくと、茜に言われた通り襖から少しだけ目を出して部屋の様子を見た。
「何故分からないんだ! 女のお前に勉学はいらぬと言っているだろう!」
先ほどから聞こえている怒鳴り声の主は、神経質そうな顔をしたほっそりした男である。彼は立ち上がり、何かしらの書物を掴んで掲げていた。
それを傍にいた五歳くらいの少女が、こちらに背を向け、男が持っている書物を取ろうと必死になっている。
「父上、その本を返してください! どうか! どうか、お願いいたします!」
父上、と少女が言っているということは二人は親子なのだろう。この状況を見る限り、父親が娘に説教をしているようである。しかし少女は幼いながらも自分の気持ちをしっかりと父親にぶつけていた。
「馬鹿者! お前が学ぶべきはこれではない。琴をやれとあれほど言っておるだろう」
「琴はあとでいたします。ですから、お願いします!」
「嘘を申すな! そう言って先日もさぼっていたではないか! 何度言っても同じなのが分からないのか!」
すると父親は女の子の左頬を勢いよく打ち、その拍子に女の子は畳の上に横に倒れた。
充は息を飲む。
(なんてことをするんだ……! 女の子はまだ幼いのに!)
「見ていられないな」
茜はそう言うと、襖の影から出て行こうとする。充は一瞬傍観しかけたが、はっとして藁沓を置いて彼女の左腕を掴んで止めた。
「ちょっと待て! 気づかれたらどうする!」
抑えた声でいうと、茜が充のほうを向く。
「構わないさ。それとも充はこの状況を放っておくのか?」
深紅の瞳が充をじっと捉える。
そのとき、充の脳裏に自分を助けてくれた修の姿が茜と重なった。




