第70話 桃守香
「充が謝ることじゃないわ。それに私は、修さんと類がいない間にこういう問題が起こったら私か充が対応せざるを得ないのに、言わないとどうしようもないじゃないって思っていたから。だから言ってくれてよかった。お陰で、もう隠す必要がないもの」
「義母さん……」
充は胸の奥から温かいものがじんわりと広がってくるのが分かる。
安堵と嬉しさが入り混じったような気持だった。
「よかった……、本当によかった」
充がそう言って、やんわりと義母の手を自分の頬から外し、とめどなく流れる涙を袖でごしごしと拭う。
「どうして?」
何度も「よかった」という充に、時子は不思議そうに尋ねた。
だが、もう充は義母の問いに安心して答えを言うことができる。
「義母さんが何も話してくれないから……、僕、頼りないのかなって思ってて……」
すると時子は、親が子どもを微笑ましく見るときのようにくすっと笑った。
「馬鹿ね。まあ、話をしなかった私も悪いけれど、そんなわけないでしょう」
「はい……」
充は義母の笑みを見て、つられて笑う。本当によかったと、心の底から思った。
「ちょっと……、いい雰囲気のところ悪いけれど、沙羅のことを早く何とかしないと」
風流が時子と充を交互に見て、口を挟んだ。彼女がつけてきた雪もだいぶ溶けている。
充にとっては大事な話だが、風流が言うようにそれどころではない。
「ああ、ごめん、風流。そうだね。——義母さん、本当に沙羅を助ける方法はないんですか?」
充は縋るような気持ちで、義母を見た。彼女は真っすぐに末の息子をじっと見つめる。
「私が知っている限り、堕突鬼になった者たちは、例外なく滅するか、もしくは殺してきた。元に戻すことを考えている間に、罪のない誰かを殺すかもしれない。だから、その前に殺してしまうのよ」
義母の言っている意味は分かる。
人々の安全を優先するならば、堕突鬼になった者を排除するしかないということだろう。
(本当に……、本当に助ける方法はないんだろうか……?)
充は項垂れ、ぎゅっと拳を握る。
昨日見た沙羅を思い出すと、このまま何もせずにいるのはやるせない。
「充は沙羅ちゃんを救いたい?」
彼女を助けることができるならそうしたい。
絞り出すように「救えることなら……」と言うと、義母がすると時子が充にこんなことを言った。
「だったら、これを持って先に行きなさい」
時子が充に右手を差し出す。その掌に乗っていたのは、一包の薬だった。
充はおずおずとそれを手に取って、包まれたものを開く。するとそこには細かい粒子の李の色に似た薬が入っていた。
「これは薬、ですか……?」
時子は息子の問いに、しっかりとうなずく。
「ええ。その薬は、妖老仙鬼が作ったもので、薬の名は『とうしゅこう』と言うの」
「とうしゅこう?」
「『桃』に『守る』『香り』と書いて『桃守香』と言うのよ」
「どういう効能があるのですか?」
「邪気を払う力がある」
「邪気を……」
充は呟いてから風流のほうを見た。彼女も桃の話をしたことを思い出したようで、大きくうなずく。
「桃には邪気を寄せ付けない力があるの。堕突鬼になったのは邪気の暴走によるのが大きいから、これを口に入れて飲ませればもしかすると正気に戻るかもしれない」
「口に入れて飲ませないといけないの? それは難しそうだわ……」
風流が怪訝な顔をして言うので、充は「そんなに難しいの?」と聞いた。
「だってとても大きな邪気が沙羅の体から出ているのよ。それに触れただけでも危険なのに近づいて飲ませるなんて……。さっきも茜が鎮静薬の水薬を沙羅に使ったけれど、水で溶かしたそれを邪気の中にいる沙羅に掛けることしかできなかったわ」
「そんな……」
「そうね。風流ちゃんが言ったように、難しいと思うわ。それにまだ一度も試したことがないから、効くかどうかも分からない」
時子はそう付け加える。
薬を飲ませられるか分からなければ、飲ませたとしても効くかも分からない。
だが、充は掌にある桃守香を優しく包み込むように握ると、意を決して言った。
「構いません。少しでも可能性があるなら、僕は試してみたいです」
何もしないよりも、何かしてからのほうがいい。
時子は彼の言葉に力強くうなずくと、じっと息子を見つめた。
「義母さん……?」
「充。あなたが沙羅ちゃんを助けたいと思うなら、その薬を使ってみなさい。ただし、一つだけ条件があるわ」
勢いよく言われ、充は少し身を硬くして次の言葉を待った。
「は、はい……。何でしょうか」
「絶対に戻ってくること。それが条件。いい? 分かった? あなたは私の、私たちの大事な息子なのだから」
充はそれを聞いて、ゆっくりと目を見開く。そして、大きくうなずいた。
「もちろんです。必ず戻ってきます」
「いい返事ね。とにかく二人とも先に行きなさい。私は万が一のことを考えて毒を持ってあとから鷹山へ行くから」
「お店は……?」
「今はそのことは気にしなくていい。鷹山のことが落ち着かなければ、旭村のことなんて考えていられないんだから」
「……分かりました。——よし、風流、行こう」
「うん」
風流がうなずいたのを見ると、充は急いで外出をする支度をすると、間もなく彼女と共に葵堂を出発したのだった。




