第53話 麗人
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「おーい、銀星ー」
風流との話を終えた充は、しっかりとわら蓑などを羽織り薬箱を背負うと、山小屋から出て葵堂へ帰ろうとしていた。
銀星が「帰るときに呼べ」と言ったため、充は山小屋付近の山道の辺りで彼のことを呼んでいたのである。
「あれ、いないのかな……? ぎんせーい」
充はもう一度、真っ白な雪に覆われた山道に向かって銀星の名を呼んだ。
だが、しばらく待っても返事もなければ、来る気配もない。
「忘れている、とか……?」
いつもなら一度呼んだだけで気づいてきてくれるため、充は小首を傾げた。
銀星のことはまだよく分からないが、約束を破るようなひとではない。
(聞こえないだけなのかな? うーん……)
充は悩んで、もう一度彼を呼ぼうと思ったがあまり大きい声を出すと、今度は別の半妖たちが反応しそうなので止めた。
二か月という間に何度も往復しているうちに、小さい子たちとは随分と仲良くなったと思う。しかし、彼らに事情を話して一緒に下山してもらうにしても、一度も人里近くまで下りたことのない子たちでは、充のほう気を揉みそうである。
(茜がいてくれればいいんだけど、あの様子じゃ無理だろうしな。そもそも、どこに行ったのか分からないし)
充はどうしたらいいか悩み、小さくため息をつく。しん、と静まり返った白銀の世界に、白い息がふわっと周りに広がる。
(待っていたほうがいいのかな? それとも一人で帰ったほうがいい? でも、銀星が付いて来てくれるっていったのは、僕一人だと心配だからだろうし……)
するとそのときだった。山道のほうから、一人がゆったりとした足取りで登ってくる人影が見える。
しかしその姿を見る限り、充が見たことのない人物だった。
(誰だろう?)
長い手足に、ほっそりとした体躯。
冷たい風に靡く長い髪は桜色をしている。柔らかな白色の着物の上には、淡い蓬色の羽織を着ていて、まるで雪が新緑を纏っているかのような、不思議な錯覚を覚えた。
だが、着ているものはそれだけ。人であればあり得ぬことである。
充は直感的にその者が「人ではない」と悟った。
(鷹山に住んでいる半妖? それとも妖怪かな……。それだったら隠れなくても大丈夫、だよね……)
充がこの山道を使う限り、今登って来ている者とは入れ違いにならなければならない。雪道ではそれも危険なので、彼は桜色の髪をした人が登り切るまでじっと待っていた。
それほど立たぬうちに、桜色の髪をした者が坂を上りきるや否や、充のほうを真っ直ぐ見る。充はその者と初めて顔を合わせた途端、あまりの美しい顔立ちに目を背けた。
「な、何か用でしょうか……?」
美しい輪郭に、すうっと通った鼻。そして桃色をした形のいい薄い唇。
まるで花から生まれたのではないかと思うほどに、幻想的な美しさに加えて気高さがある。美人や可愛い人は充も今までに見たことがあるが、さすがに花の顔ともいうほどの者にはお目にかかったことはない。
そのため、まじまじと見たいという気持ちが湧き出たが、そんなことをしたら麗人に失礼である。
よって、充はできるだけその人を見ないようにしたのである。
すると、相手は充の問いに質問で返した。
「充だね?」
男とも女ともとれるような、柔和な声が上から降り注ぐ。
何故麗人が自分の名を知っているのか。
それには驚いたが、懸命に冷静を装い顔を明後日のほうこうに向けながら答えた。
「はい、そうです」
ざくっと雪の踏む音が聞こえる。麗人が充に一歩近づいたのだ。
思わず視線を下のほうに向けると、足袋に草履を履いた足が視界に入った。雪道を歩いてきたはずなのに全く濡れていない。相手が妖怪だからだろうかと思っていると、近づいた拍子に、爽やかな甘さの薫香がほのかにした。
着物に香りでも焚き染めているかもしれない――そう考えた次の瞬間、麗人が充を抱きしめた。
「えっ⁉」
訳が分からず戸惑っていると、麗人は寒さで冷たくなった充の頬に自分の温かな頬を犬のように摺り寄せ、彼の耳元で囁いた。
「ああ、ようやく会えた……!」
何がどうなっているのだ。
どうしてこの麗人は自分のことを抱きしめ、懐かしむような言葉をかけるのだろうか。
「あ、あの……どちらさまでしょうか?」
たまらず声を出すと、麗人はゆっくりと体を引き離す。
だが充の頬は、麗人の手に包み込まれてしまったので、半ば強制的に上を向かせられてしまう。麗人の美しさは、瞳にまで至っていた。充は夏の緑葉のような色の瞳に吸い込まれるように、ほうっと魅入ってしまう。
しかし、嫌な感じはまるでない。充を見つめる麗人の瞳には、穏やかで柔らかな光を湛えている。
「私は天狐。名を桜と言う。花の『桜』と同じ字を書く」




