プロローグ
高校生活最後の夏休み。
親族へ会いに行った帰りの機内で、私は襲ってくる睡魔に目を擦っていた。
外は真っ暗で、飛行機の翼で点滅するライトが、窓から見える唯一の光源になっている。
ぼうっと明かりを眺めていたが、何かが動いた気配に思わず身を乗り出す。
翼の端で座り込み、足をぶらつかせていた人影は、私の視線に気付いたのだろう。
くるりと背後を振り向くと、こちらをじっと見返してきた。
ゆるりと目を細めた人影は、翼の上を歩き、窓の方へと近寄ってくる。
機内の明かりによって、人影の全貌が見えてきた。
自分と同じくらいだろうか。
まだ若い見た目の青年は、長い黒髪を上で一つに結えている。
白い肌と、赤い瞳。
目尻に引かれた紅が、青年の圧倒的な美貌と妖しさを引き立てていた。
「こんばんは、適合者さん」
「……えっ?」
突然聞こえた声に、思わず辺りを見回す。
周りの乗客は特に気にした様子もなく、各々のことをして過ごしているようだ。
気のせいかと思い窓の方に視線を戻すと、面白そうにこちらを見つめる青年と目が合った。
「僕だよ、適合者さん」
青年の動かす口元と、聞こえてくる言葉のタイミングが重なっている。
「まさか……貴方が話しかけてるんですか?」
「ふふ、だからそうだってば」
小声で返事をするも、周りの目が気になってそわそわしてしまう。
幸い隣は空席だが、前後には多くの人が座っているのだ。
「いったい何がどうなってそんな所に? というか、今って飛行中ですよね……?」
「こんなに高い所に来るのは久しぶりでね。風が気持ち良くて、つい長居しちゃったんだ」
ついで長居できるような場所ではないのだが、青年の顔は本当にそんな理由で乗ったんだと思えてくるほど、あっけらかんとしている。
青年の髪を見ても分かる通り、この飛行機は今まさに上空を飛んでいる最中だ。
中華服に似た青年の着衣は風の力に当てられ、先ほどからバタバタと悲鳴をあげている。
長い袖口が翻り、白い手首が顕になっているが、爪の色だけは黒いんだなぁ……なんて、どうでもいい事ばかり考えてしまった。
「とにかく、そんな所にいたら危ないですよ! 今から中に入るのは無理だし、とりあえずそこに座っててください」
「心配してくれてるの? 優しいんだね」
せめて落ちないようにと思ったものの、青年がそこから動く気配はない。
それどころか、さらに窓へと近寄ってくる。
「ねえ、君。名前はなんて言うの?」
「えっ? ……永遠、ですけど」
「永遠。永遠を意味する言葉だね。良い名前だ」
真っ直ぐな言葉に、思わず照れてしまう。
名前を聞いて微笑んだ青年は、そのまま自分の名前も教えてくれた。
「僕はシン。シンって呼んで」
「シン?」
「そうだよ永遠」
シンの緩く微笑んだ表情があまりにも綺麗で、思わずここが空の上だと言うことを忘れそうになる。
やはり私も、年頃の女子ということか。
顔の良さには逆らえないのかもしれない。
飛行機の中と外。
普通ならありえない状況だが、私はいつの間にかこの状況を楽しんでしまっている。
そういえば、シンの声は私にしか聞こえていないようだ。
はっきりと届いているにも関わらず、周りの乗客は誰一人として反応していない。
まあ、先ほどから一人でコソコソと話し続ける私の方には、たまに不審なものを見るような眼差しが向けられているのだが。
「着陸まで、あと二時間くらいかな……」
スマホの画面を見て、何となしにそう呟いていた。
「よく聞いて永遠。残念だけど、この飛行機が目的地に着くことはないんだ」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
まるで冷水をかけられたかのような気分だ。
シンの言葉に、顔から血の気が引いていく。
「なに……言って……? 馬鹿な冗談はやめてください。目的地に着かないなんて、そんなことあるわけが──」
「きゃあああああああ!」
突如、つんざくような悲鳴が機内に響き渡った。
女性の甲高い叫び声を皮切りに、伝染していく悲鳴と恐怖。
前に座っていた乗客たちは、何かに気づいたような顔をしたあと、急いで後ろに逃げようと立ち上がっている。
「いったい、何が起きて……!?」
ぐらりと揺れた機内と、前方で飛び散るあか。
あれは……なに?
べちゃべちゃと液体を踏み締めて、必死でこちらへ逃げてこようとする乗客たち。
その後ろから現れたのは、この世のものとは思えないほどおぞましい姿をした──異形の存在だった。