今考えると……
八月三十一日。
翌日から学校が始まるというのに僕は夏休みの宿題に追われていた。
計算ドリルや観察日記はある程度終わらせてはいたんだけど、絵日記だけは鉛筆が中々動いてくれなかった。
……内容自体は殆ど決まってはいるのだけど、これを書いて果たして先生は信じてくれるのだろうか。
僕はそのことで頭がいっぱいだった。
「よし、一回頭の中整理してみるか」
一ヶ月前、僕は夏休みを利用して母親の田舎に帰省をした。
都会の喧噪が懐かしくなるほど、母親の地元岩山島は何も無いに等しかった。
本土からフェリーで約一時間、岩山島は約人口千人しか住んでいない小さな島だ。
無駄な建造物もなく、車の往来も比較的少ない。そして、娯楽も圧倒的に少ない。
母親が親戚の集まりで長時間戻って来ないということで、僕は魚釣りをすることにしたんだ。
……携帯の電波が通らないから仕方のない事だけど。
家から出て約五分、雑木林を抜けた先には島の住民の純粋さを表したような真っ青な海が僕の目の前に現れた。
僕以外誰もいないことを見計らって、防波堤に急いで向かった。
つい五分前、母親から一人で海に行かないように注意をされたが僕はそれを知らんぷりした。
禁止にされたら、逆に気になってしまうのが人間の性だからだ。
釣り糸を海に投げ込み、僕は魚が人間界にやってくることを待つことにした。
「こんな娯楽のない場所で何をやればいいんだよ……全く」
五分、十分と時間は経っていく中で、一向に魚が現れる気配はない。
短気な僕は段々とイライラし始めて釣竿をへし折ってやろうかと考えた、次の瞬間、糸が勢いよく引っ張り始めた。
「キタキタキタキタ! よ〜し!」
僕は持てる限りの力でリールを引き、海の中にいる獲物を人間界に引きずり込もうとした。
そして……ついにソイツは現れた。
「いたたた……君、もうちょい手加減してよ。危うく死にそうになったじゃん」
大きな波飛沫から現れたのは全裸の女だった。
真っ黒な長髪に目元にある泣きぼくろ、健康的に育った実りのある肉体。
思春期の僕にとって目の前で起きている現象は体に悪かった。
「あ、アンタだれだよ?!」
女は僕が慌てている様子が面白いのか、口元をニヤリと歪めて
「人魚。名前ぐらい知ってるでしょ?」
有り得ないことを言っていた。
「人魚が本当に居るわけ……」
「釣り糸で釣られる人間が居るわけないでしょ」
言われてみればその通りだった。
裸なのが恥ずかしくなったのか、彼女は僕のシャツを無理やり脱がして裸体を隠した。
隠したせいでより一層体が目立つことになったせいで、僕は気が気じゃなかった。
少しして彼女は気を許してくれたのか、僕が知らないような岩山島のことを自慢げに話をしてくれた。
「人攫いの人魚伝説って知ってる?」
「この島にはね、人間の少年が大好きで大好きで仕方のない人魚が子供を攫って食べるというね伝説があるの。今でもその言い伝えは島民には伝わってて、子供たちは海には行かない筈なんだけどな」
人攫いの人魚伝説。
程よく健康的に育った肉体、女と見間違えるような容姿を持った少年を食べると人魚は知性、人間の肉体を手に入れることが出来る。
現に今、彼女は……裸だ。
「これでわかったでしょ? 君を食べれば私は海を泳ぐ力を手放すことが出来る。……ちゃんと親の言いつけは守らないとダメだよ」
彼女はゆっくりとゆっくりと僕の傍に近寄り、真っ白な細長い手で僕を押し倒した。
あと一歩というところで僕は気を失ってしまった。
そして目が覚めると、心配そうな顔をした母親が僕の顔を覗きこんでいた事に気がつき、僕は母親に謝った。
ここでふと僕はあることに気がつく。
「あの人……もしかして岩山島の住民かもな」
島民しか知らないような話をしている時点で気づけば良かった。
言い伝えを破る子供を防波堤で待機して叱るなんて彼女は何て大変な役目を背負わされているのだろう。
でも良くよく考えたら裸でいる必要は無いんじゃないか?
僕の体を丁寧に触り続ける必要も口元に口付けをする必要も全くないし、何なら僕のシャツをそのまま奪う意味がわからない。
母親は彼女の存在を目線をズラしながら、知らないと答えていたし、僕は不必要な体験をしてしまったのか……
僕は頭の中を整理したあと、岩山島であった出来事を絵日記に書いて翌日、学校に提出をした。
そして職員室に呼ばれて説教をされてしまった。