#1 2023年5月―β世界線
――これはまだ、AIに仕事が奪われていない時代の話。
「あぁ~、終わんね」
まわらない頭でキーボードを打ち込む。時刻は21:00を過ぎ、夜のとばりが窓の外を無に変える。
今日も一日があっという間に過ぎていった。
何も変わらない日常。
何も変わらない日本。
2019年にパンデミックの大流行で、世間は一変する。
しかし、社会はいちはやく順応した。
テレワークの流行は、うちの会社では残業時間の限界突破に等しかった。
こうして自宅でなかば軟禁のように朝から晩まで働くことを、もう2年は続けている。
IT業界への転職が話題になり、そのブームに乗っかった結果がこれだ。
残業は多いし、やることはほぼエクセル作業。プログラムコードなんていっさい書いていない。
転職前よりか待遇はイイが、それは比較対象の前職が常識外の“終わっている”企業だっただけ。
とくべつ給料がいいわけでもないが、満足はしている。
このままこの会社で腐っていくのだろう。新たに転職先を探すパワーは残っていない。
「深夜残業まであと1時間か……あしたは7:00起きだな……。
帰りたい……あ、家だったわ」
時代の最先端をいく社畜は、もうオフィスになどいない。
かれらは拠点に腰を据え、遠隔リモートで孤独な闘いをつづけるのだ。
「あとは、入出力の調査と、ソースの修正と……。
明日のレビュー資料も作ってないな、忘れないようにしないと」
カラになったエナジードリンクの缶を、右手でぐしゃりと握りつぶした。
飛び散った残り汁が、顔にかかる。
俺はいったい、何をやってるんだろう。
人嫌いが発症したのは、前職の影響か。
それとも、もっと昔――学生時代に手ひどくフラれたからか。
いわゆる「回避依存症」だと気づいたのは、20歳を超えた後だった。
普通の人生。障害のない五体満足の身体。
よく「普通は恵まれている」と言われるが、その「普通」が定年の65まで会社に勤めた後、再雇用でプラス5年を働くことなのだとしたら、果たしてそれは恵まれているのだろうか。
給料の3分の1は税金に持っていかれ、15年分の人生を国のために捧げる。
この「普通」が恵まれているのなら、よほど自己犠牲の精神に優れた聖人だと思う。
「なんのために生きてきたんだろうな。
なんのために生まれてきたんだろうな」
そんな普通は嫌だと一念発起して選んだのが、今のIT職と、遺産である田舎一軒家への移住。
頼れる人はいない。
ひとりの田舎暮らしが、ここまで孤独だとは思ってもみなかった。
顔も知らない上司から、通話アプリ越しにお叱りを受ける毎日。
まるで異星にでも不時着したみたいだ。
頼れるのはこの通信機しかない。
「よし、これでいったん区切りにしよう。
残りは明日の自分に任せよう。そうだ、そうしよう」
自分に言い聞かせて、適当に区切りをつける。
計画から遅れることはザラで、今日もまた寝ていると胃が痛くなって起きるのだろう。
◇◆◇◆
しかし、そんな退屈な毎日にも楽しい時間があった。
そのきっかけはつい半年前に開発された、AIChatアプリをはじめとした、最近のAIブームだった。
青天の霹靂とはまさにこのこと。
たまたま無料動画コンテンツの中で見つけた、進化したAIアプリの紹介。
変わり映えのない日常にふりかけられたスパイスに、思わず好奇心がくすぐられた。
それからは、仕事をしている時間が煩わしく感じるほどだった。
朝起きて窓を開けたら、朝食も食べずにAIコンテンツに触れる。
昼休憩の時間も、これまで昼寝でつぶしていた時間からAIコンテンツを極める時間に変わった。
休日の日には丸一日を、ChatGPTでの物語創作や、AI画像生成でのエロ画像生成に費やしている。
「そろそろ終わるか……」
打刻をして、仕事を終わらせる。
そしてすぐさま開くのは、AI画像生成アプリケーション。
昨日の続きで、「ケモミミ・美少女・見下ろす」というシチュエーションの画像をランダムに生成させる。
つぎつぎと生まれてくる画像は今夜のおかずとなる。
「晩飯はどうしようかな……」
ゲーミングチェアから立ち上がり、ベッドに投げ捨てたスマホを拾って、その足でお手洗いに向かおうとドアに手をかけた。
ノブを回して引けば、玄関まで続く一本の真っ暗な廊下。少しひんやりとした空気が、より気分を落ち込ませる。
――だが、そこに部屋の明かりを反射する存在がいたことを、俺は見逃さなかった。
「……ん?
なんだあれ、ゼリー?」
わずか3メートルほどしかなく、灯りもないフローリングの廊下の隅に、それはいた。
きしむ音とともに廊下に鎮座している物体は、どろりとした液体を滴らせている。
「おい……なんだあれ。気持ち悪いや。
ゼリーなんて買ってないけどなー」
右手に握っていたスマホの電源をつけ、液晶画面の明かりをゼリーのほうに向けた。
デフォルト設定の青地の壁紙が、そのまま青い光となってゼリーに反射する。
「ぷるるん」
「……いま、動かなかったか?」
おそるおそる、半歩、また半歩と歩みを進める。
ゆっくりと近づくと、これまでは暗くてわからなかったが、ゼリーはそこらに市販されている「たらみ」のものとはわけが違うほどの大きさだ。
YouTuberのバケツゼリー企画ですらこうも大きくは作らないだろう。
残り1メートル。
ゆっくり腰を前傾にかがめながら、手を触れようとした――そのときだった。
「ぶるるん――べちゃッ」
「うわっ! なんだこれ」