97:兄の来訪
十七歳の冬の終わりのことでした。
今年は妹が貴族学園に入学し、ついに乙女ゲームが始まる年だな、と考えることが増えました。
悪役令嬢ペトラが存在しない学園でなら、シャルロッテも安心してグレイソン皇太子殿下との恋を温められるだろうと、わたくしは呑気に考えておりました。
けれど、まだ皇都までの道の所々に雪が残っていて馬車が走りづらく、治癒棟に訪れる患者も少ないその季節に、予期せぬ客人がわたくしの元を訪ねてまいりました。
「ペトラ、先触れを出すこともなく訪れたことを許して欲しい。緊急なんだ」
「アーヴィン、お兄様……っ!?」
皇都で暮らしているはずの義兄アーヴィン・ハクスリーが、一月もの距離がある聖地ラズーへ、先触れもなくやって来る。それは通常では考えられない事態でした。
しかもアーヴィンお兄様は旅装姿で、着ているローブがくたびれています。身なりを整えるための休憩すら取らずに、わたくしのもとまで訪ねてきたようです。
「このような姿で申し訳ない、ペトラ」
「いいえ、それほどの理由があるのでしょう? すみません、職員さん、客室にお茶をお願いします」
わたくしは兄を治癒棟の客室へと案内しました。
職員さんが届けてくださったラズーのお茶を兄に勧めつつ、自分の気持ちも整えます。公爵家の跡取りである兄がわざわざやって来る。それも先触れも出す暇もなく、雪の残る道を強行してきたとなれば、良い話であるわけがありませんでした。
「……シャルロッテの両目、両耳に異常が起こったんだ」
「それは、どのような……? トルヴェヌ神殿の治癒能力者には診せましたか?」
「シャルロッテは今、特定の人物の姿が見えず、相手の声も聞こえないらしい。
神殿にはすでに治癒を掛けてもらった。だが効果はなかった。どうやら原因は心理的なものではないかと神官は言うのだが……」
「特定の人物とは、どなたなのです?」
「……グレイソン皇太子殿下と、セシリア皇后陛下のお二人だ」
「よりにもよって、そのお二人では……」
シャルロッテの症状の原因がストレスでは、わたくしが治癒を掛けたところで治る見込みはありません。だって彼女の目や耳そのものに病気があるわけではないのです。心の病だけは、わたくしにも治癒することが出来ません。
婚約者とその母親の姿や声が認識出来ないのでは、シャルロッテの婚約はもう絶望的でしょう。
アーヴィンお兄様が直々にわたくしのもとまでやって来た理由がわかりました。
皇室との婚約が消えようとしているこの状況を、他者を介入してわたくしに伝えるわけにはいかなかったのでしょう。
そして大神殿の治癒能力者であるわたくしにシャルロッテを診せるために、迎えに来たのです。治る見込みがないことを知りながら。
「僕個人としては、シャルロッテはこのまま領地に戻って療養生活を送ればいいと思っている。あの子は后教育に登城する度にどんどん元気がなくなっていったから、皇太子妃になるのは向いていなかったのではないかな。それでも無理をし続けてこんな結果になってしまったのなら、もう無理はせず、のびのびと過ごして欲しいんだ」
「けれど、お父様のお考えは違うのですね?」
こくり、とアーヴィンお兄様が頷くというよりも項垂れました。
「シャルロッテを治癒させるために、ペトラを連れてこいと仰った。それで駄目ならばシャルロッテの療養を考える、と」
「あの方らしいですわ」
「すまない、ペトラ。君にも大神殿の仕事があるのはわかっているのだが、どうかこのまま僕と一緒に皇都へ来てくれないだろうか」
治癒能力ではシャルロッテの状況を変えることは出来ません。
けれど、わたくしが皇都まで行き、シャルロッテから話を聞いて、彼女のストレスの原因を突き止めることは出来るかもしれません。それを遠ざけることが出来れば、彼女の症状は消え、またグレイソン皇太子殿下の婚約者として返り咲けるかもしれません。
すこしでも彼女の力になって差し上げたい。
だって、こんなふうにヒロインのシャルロッテが、攻略対象者であるグレイソン皇太子殿下との恋を閉ざされなければならないなんて、あんまりではないですか。
「わかりましたわ、アーヴィンお兄様。上司に話してきます」
わたくしはアンジー様に『妹が病気になったので、治癒するために公爵家に帰る』とだけ伝えました。症状などを詳しく伝えて、妹の婚約が危うくなっていることを知られるのは、ハクスリー家としてまずかったので。
アンジー様はとても親身になってくださいました。
「ご家族の病気は辛いよね。いいよ、わかった。皇都へ行っておいで、ペトラちゃん。でも一応、見習い聖女の遠出だから神殿騎士団に頼んで護衛を派遣してもらおう。急だから一人くらいしか出してもらえないかもしれないけど……」
「ありがとうございます、アンジー様。実家に帰るだけですし、騎士の派遣は一人だけでも充分ですわ」
「正直、ペトラちゃんの実家が安全な感じがしないんだよねぇ。閣下のクソ野郎のせいで」
「あはは……」
実の父親が危険視されているって、そうとう恥ずかしい状況ですわ。
アンジー様のおかげで、神殿騎士団から急遽レオを派遣していただけることになりました。
夕食の際にベリーにも突然の皇都行きを伝えます。
「そっか、妹が病気に……。それは心配だね」
「はい」
「セザールから馬を貸してもらおうか? その方が早く皇都へ行けるでしょう」
「いえ、そんな特別待遇は見習いの身には過ぎたものですわ。大丈夫です。ちゃんと無事に大神殿へ帰ってきますから」
「……うん。安全に帰ってきてね」
「大神殿がわたくしの家ですもの。ちゃんとベリーのもとに帰ってきますわ」
わたくしもベリーがマルブランへ行ってしまった時とても寂しかったので、ちゃんと無事に戻ってくるということを念入りに彼女に伝えます。
ベリーは寂しげな表情を浮かべながらも、「わかったよ」と納得してくださいました。
翌日、わたくしはアーヴィンお兄様が乗って来たハクスリー公爵家の馬車に乗り、皇都に向けて出立しました。




