95:乳母と養い子(ベリスフォード視点)
朝食後、ペトラは眠気が襲ってきたのか、だんだん元気がなくなっていった。欠伸の回数が増えて、目をウトウトさせる。
今日は休みをもらって部屋で寝ていた方がいい、とペトラに言ってみたけれど、真面目な彼女は首を横に振った。
「友達のために徹夜するなんて、人生でもほんの僅かな時期にしか訪れないイベントなので。そしてこのまま徹夜明けの勤務も完璧にこなしてこそ、イベント達成なのですわ」
ペトラはそんなふうによく分からないことを言って、午前の授業へ向かっていった。
彼女を見送ってから、私は最奥部へ向かうことにした。
▽
マシュリナは私の部屋の掃除をしていた。
床を箒で掃くマシュリナの丸まった背中が昔より小さく感じる。いつのまにか彼女の背を追い越してしまったからか。それともマシュリナ自身歳を重ねて昔より痩せてしまったのか。もしくはその両方だろうか。
「マシュリナ」
私の呼び掛けに振り返ったマシュリナの顔は強張っていた。
昨夜の会話がまだ彼女の頭のなかで繰り返されているのだろう。
「お母さんの死んだ原因は、セシリア皇后陛下じゃないんだって」
「なに、を……」
「聞いてきたんだ」
本当は、お母さんが死んだ原因をマシュリナに話すのが怖い。
マシュリナは私の心が育たなかった間も、この体を必死に育ててくれた人だから。私を見捨てずに関わってくれた乳母だから。
私こそがお母さんの死んだ原因だと知ったら、マシュリナは私のことを嫌いになってしまうのだろうか。
「セシリア皇后は確かに、お母さんにたくさん嫌なことをした。意地悪で嫌な人だ。だけどお母さんはセシリア皇后に虐められて挫けるような人ではなかったんだよ」
「……ではっ、なぜウェルザ様が死なねばならなかったのですか!? あの女狐のせいでないのなら、いったい何がウェルザ様のお命を縮めさせたというのです!? あの女が悪くないのだとしたら、私は誰を憎んで生きればいいの!!?」
「私だよ、マシュリナ」
大好きな主を失った行き場のない悲しみを、誰かを憎むことに変えなければ生きていけなかったというのなら、私はマシュリナに憎まれなければならない。
けれど、きっとマシュリナも私も、そんなことには堪えられないだろう。
「私がお母さんの亡くなった原因なんだ」
「……ベリー様……? なにを、おっしゃって……」
「神託の能力者はこの世に一人しか生きられないんだ。二人存在して仲違いをしたときに、アスラーはどちらにも肩入れできないから。
私かお母さんのどちらか一方しか生きることができなくて、……お母さんは私が生きることを選んだんだ」
「そんな……っ」
マシュリナの表情が抜け落ち、床へと崩れ落ちた。受け止めきれない真実に呆然としているようだ。
私も床にしゃがんで、マシュリナに視線を合わせた。
「ねぇマシュリナ、私が憎い? あなたの大事な主を奪った私が、憎いですか?」
「……ベリー、さま」
「マシュリナが私を憎むなら、仕方がないと思う。でもきっと、私の心もマシュリナの心も、憎しみには耐えられないと思うんだ。お互い傷付いて、ボロボロになってしまうと思う。
だから許してほしい。私、一生マシュリナに謝り続けるから、どうか私を許して……。あなたに憎まれたくないんだ……」
懇願しているとどんどん悲しくなって、涙が込み上げてきた。喉の奥が狭まって痛い。耳が熱い。
私がボロリと涙を溢すと、マシュリナも合わせ鏡のように泣き出した。
「ウェルザ様の御命は、アスラー大神様でもどうすることも出来なかったのですね……。かわいいベリー様の御命と引き換えなら、仕方のないことですね」
マシュリナは私を見つめた。
「……ばかな子、ベリー様は本当にばかな子ですよ。どうして私があなたを憎めるのか……。あなたは私のかわいい子ですよ……」
「うぅぅ、ごめん、マシュリナ……」
「私こそ申し訳ありませんでした。いくらベリー様の身の安全を守るためとはいえ、性別を偽らせるなど……。自分の望む性で生きられぬことだって、とても苦しいことでしたのに……」
「もういいんだ、マシュリナ。あなたが、一生懸命私を生かそうとしてくれたことは、ちゃんと、分かっているから……」
「ベリー様……っ!」
母子共にぼろぼろと泣いて、マシュリナの小さくしなびた手が私の大きく成長した背中をあやす。
いくつになっても、きっとマシュリナには勝てないのだろうな、と私は泣きながら思った。
お互いに泣き止むと、マシュリナが二人分のお茶を淹れた。
こうやって向かい合ってお茶を飲むことはほとんどしたことがない。マシュリナは乳母としていつも一歩引いたところにいたし、私も彼女はそういう人なのだろうと深く考えたことがなかった。
「……ウェルザ様がセシリア皇后陛下を神敵扱いしなかった理由は分かりました。あんな女にも同情するなんて、あの御方らしいです」
マシュリナが溜め息混じりにそう言って、カップをテーブルに置く。
「ベリー様、ひとつだけ約束してくださいますか」
「うん?」
「あなた様の心身に危害が加えられそうになった時には、ちゃんとアスラー大神のお力を借りてでもきちんと抵抗し、ご自身を守ると。約束してくださいますか?」
「うん。分かった」
「ならばセシリア皇后陛下に命を狙われても、大丈夫ですね」
「いきなり物騒」
「だってベリー様、男性として生きたいのでしょう?」
マシュリナにそう問われて、私は戸惑った。
「昨日、あんなに反対していたのに、いいの?」
「ベリー様のお命を守り抜けそうにないから、女の子として育てていましたが、アスラー大神がきちんとベリー様をお守りしてくださると分かった今では、私が反対する理由はなくなりました」
「マシュリナ! ありがとう! いつ髪を切ってもいい!?」
「お待ちください、ベリー様。まだ皇位継承権の問題が残っています。上層部と話し合わなくてはなりませんよ」
「皇位継承権がなくなったら、私、男の格好をしてもいいんだね!! わーい」
「ですから、それも難しい問題なのですよ!?」
▽
その後上層部とも話し合うことになった。
そこでもやはり、皇位継承権が問題になった。女の子の振りをしているなら継承権を知らんぷり出来るけれど、男として暮らすにはどうしても避けて通れないらしい。
「アスラダ皇国の皇位継承権は、皇帝の承認で返上することが出来ると憲法には定められておりますが、前例はかなり少ないですな」と、イライジャが言う。
「ベリーが皇城に上がった瞬間に、皇帝が皇子としてベリーを迎え入れられちまいそうだしなぁ。なにせ皇子は現在一人だろ? 予備がほしいのは仕方がねぇ」
「それでは我々大神殿が困ります。ベリー見習い聖女、……いえ、ベリスフォード見習い神官には、大神殿に留まってもらわなければなりません」
「……確かもう一つ、皇位継承権の喪失方法がありましたよね」
眉間にシワを寄せるダミアンとマザーを見つめながら、セザールが手を挙げて話し始めた。
「皇帝の承認のない婚姻をした者は、皇位継承権を喪失するという法がありましたよね」
「ペトラに男として見てもらいたくて、男として生きるために皇位継承権をどうにかしたいのに、皇位継承権を喪失するためにはペトラに結婚してもらわなければいけないの? すごくややこしいね」
鶏が先か、卵が先かみたいな問題だな。
そう思って言えば、イライジャとマザーがびっくりしたような顔をしていた。
「おいマザー、イライジャ、本当に分かっていなかったのかよ? ベリーの奴、あんなに分かりやすく嬢ちゃんのことが大好きだっただろうが」
「……私は大聖女になるために色恋とは無縁の日々を送ってまいりました。そういう他人の機微には疎いのです……」
「も、黙秘する……」
皇位継承権についての問題はそのまま宙ぶらりんになってしまったけれど、私が男として生きたいという気持ちだけはマシュリナにも上層部にも理解してもらえたので、一歩前進だろう。これからどうか一緒に、考えてください。
これにて5章終了です。ベリーの中身が男の子になりました。
明日から始まる6章がついに物語の山場です。ベリーの外側も男の子になります。
完結が近付いている喜びと、ストック切れ間近の恐怖が迫ってきています。ストック切れたら不定期更新になるしかないのですが、ここまで来たら完結まで走り抜きたいものですね。




