94:罪悪感と感謝(ベリスフォード視点)
気付くと私はペトラの部屋のなかに居た。
すでに時刻は真夜中をとうに過ぎ、規則正しい生活を送るペトラはベッドのなかで眠っている。
きっちりとカーテンを閉め、明日の朝の水を用意し、髪をお下げにして眠るペトラ。布団に包まれた彼女の豊満な胸が呼吸の度に上下するのを見て、私はようやく『やってしまった』と思った。
いつの頃からかペトラの部屋に入りづらい心境になって疎遠になり、今ではハッキリとした自覚を持って彼女の部屋に入らなくなっていたのに。失敗した。
お母さんが死んだのは私のせいだと知って動揺し、ほとんど無意識のうちにペトラの部屋に入っていた。卑怯にも彼女の慰めを求めてしまっていた。
もう分別の無い子供ではなく、女の子でもない私は、無防備なペトラに縋ってはいけないのに。
私はペトラの部屋から出ようと、静かにきびすを返した。
「あら……? どうしたのですか、ベリー……?」
背後のベッドから物音がして、ペトラが寝ぼけた声をかけてくる。
私はびくりと肩を跳ねさせ、恐る恐る彼女の方に振り返った。
ペトラは目元を擦りながら私を見上げ、「いっしょに寝ますか?」と尋ねた。
私は上手く声が出せなくて、首を横に振る。ペトラはゆっくりと上体を起こした。
「ベリーが夜中にわたくしの部屋にやって来るなんて、子供の頃以来ですわね」
眠気と戦いながら話すペトラの声はぽやぽやとしていて、そこに滲むのは〝なぜ私がやって来たのだろう〟という疑問だけで、拒絶感はないみたいだった。そんなことに勝手に安堵する。
「……勝手に部屋に入ってごめんね、ペトラ」
「いつ来ても良いと、合鍵を渡したままにしているのはわたくしですわ」
ベッドの端に腰かけたペトラは、私も隣に座るようにとベッドをパシパシ叩く。
それはちょっとどうなのかと思って、近くの椅子をベッドの側に運んだ。そのあいだにペトラはランプに明かりを灯し、室内が橙色の炎に照らし出される。
椅子に腰かけてから、改めてペトラを見れば、彼女は薄着だった。私は思わず、首元を隠すために使っているいつもの布をペトラに差し出した。喉仏の存在に気付かれてしまうことより、ペトラの透けた肌を私が見てしまうことの方が大問題だと思ったので、仕方がなかった。
「ありがとうございます、ベリー。夜中は少し肌寒いですわねぇ。今何時でしょうか……あら、三時ですわ」
「ああ、もうそんな時間だったんだね……」
マシュリナが明日というか今日の私の衣類の準備をしていたのが夜の十時頃で、そのあとは『始まりのハーデンベルギア』の空間に居た。私は結構長く、放心状態だったんだろう。
「……ベリー。なんだか声がしょんぼりしておりますわ」
私が男だと気付かないくらいには鈍感なところがあるペトラだけれど、こんな時には妙に鋭い。
そして私はこういう時なんて答えたらいいのか分からないくらい人生経験が浅いので、まごついてしまった。
「なんでも話してください、ベリー。相談に乗りますわ」
「……えっと」
相談しても良い内容なのか、そもそも相談って何を言えばいいのか分からない。
視線をうろうろとさ迷わせていると、ペトラが仕方がなさそうに笑う。
「なんでも話すっていうのは、難しいですわよね。いくら親友でも。誰にも言えないことや秘密の一つや二つ、皆さん持っていらっしゃるもの。
相談したくなったら言ってください。いつでも聞きますから」
「あ、……うん」
「じゃあ、今日はこのまま夜更かしをしましょうか」
ペトラはそう言うと、ベッドから立ち上がってチェストの引き出しを開けた。そして次々とおやつの備蓄を取り出し始める。
「えっと、ペトラ? 私が言うのもなんだけれど、眠らなくていいの? 今日の仕事、大丈夫?」
「親友が沈んだ気分の時は一緒におやつ食べ放題をするのが、女の子の礼儀というものなのですよ、ベリー。
泣いても喚いても現実は変わらない。つまり泣き喚いている時でさえ、美味しいものは美味しいのですわ」
そう言ってペトラはドライフルーツの瓶や、ナッツの蜂蜜漬け、日持ちのする焼き菓子や砂糖菓子、薫製されたチーズや干し芋などをテーブルの上に並べ始める。……体型が崩れるのを気にしておかしを食べすぎないようにしていると以前言っていたけれど、ペトラは本当にその決意を守れていたのかな。そう疑問に思ってしまうほどの備蓄だった。
「以前皇都へ行ったときに、シャルロッテからフレーバーシロップが流行っていると教えて頂いたでしょう。それで旅行中にもいくつか買ってみたのですが、ラズーのお茶には合わなかったのです。でも最近、炭酸水で割るとおいしいということに気付きましたの」
ペトラはそう言って、色とりどりのシロップの瓶と、炭酸水の瓶を運んでくる。
「まだ素敵なグラスを買っていないので、ティーカップしかないですけど、構いませんよね?」
「あ、うん」
見習いのペトラは、火鉢を使う季節しか部屋でお茶を沸かせない。だから必然的に冬しか出番の無い二客のティーカップを、テーブルに並べた。ペトラ専用の薄紫色のカップと、私専用の赤いカップだ。
このカップを使わせてもらうのは何年ぶりだろう。『ベリーのカップですよ』と私の為に用意してくれたペトラの優しさを裏切るように、ここ数年間、私は彼女の部屋に入らなかった。
その間ペトラは一人で薄紫色のカップだけを使いながら、なにを思っていたのだろう。
赤いカップは欠けたりヒビ割れたりせず、大切に保管されていたことをその形すべてが証明している。それが申し訳なくて、苦しくて、嬉しい。
「本当はお酒で割るのが一番だと思うんですけど、まだ成長期のわたくしたちにお酒は毒ですからね。ベリーはどのシロップサイダーがいいですか?」
「ペトラと同じので良いよ。炭酸水の瓶、貸して。私が開けるから」
「あら、ありがとうございます」
炭酸水のコルクをポンッと抜けば、「ベリーは握力が強いですね」とペトラがしみじみと言う。レオ隊長のお陰です。
それから二人で色んなシロップサイダーを作っては飲み、おやつを次々と食べ、ペトラが話す話題に耳を傾けた。
ペトラは、
「アルコール式の小さいコンロを部屋に導入するか悩むのですよね。アンジー様のお話だと、聖女の部屋には最初から設置されているのですって。あと二年くらいしか使わないのなら、待っても良いような気がしますし」
とか、
「最近メインストリートに新しいベーカリーが出来たそうですよ。裏メニューで、プラス銅貨二枚で生クリームをトッピングしてくれるらしいです。レオから聞きましたの。次に街へ行くときはぜひベーカリーに寄りましょうよ、ベリー」
など、他愛もない話をする。
毒にも薬にもならず、誰のことも傷付けず批判しない、穏やかな日常から溢れてくる優しい話。
小さなランプの灯りと、たくさんのおやつと甘いソーダで作られた夜は、出口の無い苦しみを味わう私を柔らかく包む。
「そういえば、ベリーがマルブランへ行っていた頃、わたくし、隣の領地へプチ出張に行きましたのよ」
「へぇ。ペトラも大変だったんだね」
「心臓病家系の女性で、その方も心臓病の症状が出ていたのですけれど、一人分の治癒費しか出せないから、お腹の中の赤ちゃんの心臓を治癒して欲しいとおっしゃったんです」
「……まだ赤ちゃんの心臓に病気が遺伝しているかも分からない段階で? 自分よりも赤ちゃんを優先したの?」
「ええ。そうなのです。ご自分だけ助かっても、赤ちゃんに遺伝していたらその子もいつ亡くなるか分かりませんから。その女性の妹さんも、幼少期に亡くなったそうですし」
「自分の病気を治癒したあとに、またお金を貯めるんじゃダメだったの?」
「ベリー、庶民には大神殿の治癒費は本当にお高いのですよ。一生に一度診てもらうことさえ出来ない方が大勢いるのですわ」
「そうなんだ……」
「でもわたくし、うっかりその女性と赤ちゃんの両方を治癒してしまったのです。こちら側の失敗なので、治癒費はお一人分しか受け取りませんでしたわ」
ペトラが最後にそう言ったのでホッとした。
私のような子供は一人でも少ない方がいい。親が自分の命よりも子供の命を優先して亡くなったら、子供の側はその悲劇を受け止めるのも大変だ。
「お母さんも助かって良かったね。……もしお母さんが亡くなってしまったら、子供はとても辛いだろうから」
「そうですね。もしそうなっていたら、お子さんの方は罪悪感で苦しむことになるでしょうねぇ」
「……うん」
「それでもお子さんは先の人生を生きなければいけないから、どこかで自分の罪悪感に折り合いをつけて、母親へ感謝するしかないのでしょう」
「……その罪悪感は、どうやって折り合いをつけるの?」
「時間薬ですわ。罪悪感に囚われている間は底無し沼で溺れるみたいに苦しいでしょうけれど、毎日の生活に追われているとそんなこと考えてる暇がなくなってしまいますから。少しずつ考える時間が減っていって、でも時々また罪悪感の大嵐が来て、また生活しなければならない朝が来る。そうやって十年くらい経つと、底無し沼は消えて、諦めが残るのですわ」
「先の長い話だね」
「そうですね」
それからしばらくペトラはナッツの砂糖掛けをポリポリ食べていたけれど、「そういえば」と、ふと顔を上げた。
「母親で思い出しましたけれど、わたくし、まだベリーのお母様のお墓参りをしておりませんでしたね」
「そういえば、そうだね」
「ねぇベリー、今からお墓参りに行きましょうよ!」
時計を見るともう五時だった。カーテンの向こうではすでに夜が明けていて、洗い立ての朝が始まっている。
ペトラは夜通し起きていた反動か、妙に元気いっぱいだ。たぶんこの無敵な状態が終わったら、眠気に襲われて大変なんじゃないだろうか。そう思って、少しでも寝た方がいいよと伝えたけれど、ペトラは首を横に振った。どうしても私のお母さんのお墓参りをすると言う。
「わかった。案内するね」
▽
突然ペトラが着替え始めたので、私は慌てて廊下に出た。
私が女の子ではないということをペトラが知ったとき、彼女はどんな反応をするのだろうと、ふと思う。泣くんじゃないだろうか。怒るとか、私を殴るとかじゃなくて、泣いてしまいそう。
私はいつか泣くペトラを、泣き止ませることが出来るだろうか。
たくさんたくさん謝ったら、少しは泣き止んでくれるだろうか。分からない。
「お待たせしました、ベリー」
「うん」
「でも、部屋のなかで待っていればよろしかったのに」
「よろしくは、ないと思う」
「そうでしょうか?」
「そうなんです」
元気いっぱいのペトラを連れて、大神殿の建物から出る。普段通らない小路を通って、これも大神殿の敷地の一部である巨大霊園に向かった。
ラズーの民や信者たちのお墓、この地に住まう貴族たちの大きなお墓の群れと一緒に、大神殿の関係者のお墓がたくさん並んでいる。
歴史に名を残すような大神官や大聖女のお墓には今でも花束が絶えなくて、私のお母さんのお墓にもいくつか花束が供えられていた。
「ウェルザ様、今日は花束が用意できなかったので、途中で摘んだお花で申し訳ないのですけれど……」
ペトラがそう言いながら、ハーデンベルギアを供えた。それから水の入れ換えをして、手を祈りの形に組む。
私も彼女に合わせるように、お母さんの冥福を祈る。
ペトラの言う通り、残された側の人間にはもうなにも出来ない。
本当は『ごめんなさい』と言ってしまいたい。地面に額を擦り付けて謝罪の言葉を叫びたい。
お母さんが死ぬほどの価値なんて、私の命にはないです。なんにも成し遂げられない人生しか生きられません。ごめんなさい。ごめんなさい。
でも、私なんかじゃなくて、お母さんが生きるべきだったんだよ、と嘆いたところで現実は変わらない。
だからね、お母さん。ありがとうございました。
私に未来を譲ってくれて、ありがとうございました。
今は泥のようにまとわりつく罪悪感で、心からのお礼にはなっていないけれど。ちゃんと最後には、感謝だけが残るようにこれから先を生きていく。生きていかなくちゃならない。
お母さん、ありがとうございました。
結構長く手を合わせてしまったなと思って顔をあげれば、ペトラの方はまだ手を合わせていた。皇都でのお墓参りとは逆の状況だ。
ペトラのお祈りが終わったあと、彼女も同じことを思い出したのだろう。「あのときとは反対ですわね」と楽しそうに笑う。
「ウェルザ様にたくさんお礼を伝えておきましたよ。ベリーを生んでくださってありがとうございましたって。ベリーが一等大好きですって」
「うん。……ありがとう、ペトラ」
「ではお墓参りもしましたし、次は食堂で朝食をいただきましょう。夜通し甘いものを食べていたら、今度はしょっぱいものが欲しくなりましたわ」
そう言ってペトラが歩き出す。頭頂部に近い位置で結ばれたラベンダー色の髪が、彼女が動く度に尻尾のように揺れる。以前私が贈ったリボンも、ひらひらと踊る。
この瞬間のペトラを見れただけで、生きていて良かったと思ってしまった私を、天国でお母さんは呆れているかもしれない。
呆れて、笑ってくれているといいな。




