92:性別を偽って生きる理由(ベリスフォード視点)
「よし。あと腹筋十回追加だ、やれ!」
「うぅ、もう限界です、レオ隊長……」
「限界から追加してこそ筋肉は鍛えられるんだ! 男なら泣き言言ってんじゃねぇ、ベリー隊員! やれと言ったら、やれ。隊長命令だ!」
「イエス、サー……いーち……、うぐぅ……」
「ほらあと九回! たったの九回だぞ!」
「にーい……」
女性のエスコートの仕方を教えて欲しいとレオに頼んでから、筋トレを頑張っている。
レオ曰く、筋トレはすべての男の基礎教科で、これをやり遂げられない奴に紳士の名を語る資格はないそうだ。私が知らないところで、セザールやイライジャもやっていたのかもしれない。ダミアンは絶対にやっている。
最初は今よりもキツかった。
レオから「毎日走れ」と言われたので、適当な階層の世界を選んで走ってみた。
最初は砂漠で走ってみたけど、すぐに暑さに負けた。
以前浄化した海岸で走ってみたときは、砂に足を取られて転んだ。
熱帯雨林は木の根っこや下生えの植物が邪魔だし、どこかの村はずっと火災で燃えているし、塔のある世界は叫び声がうるさくて集中出来ない。
なかなか、走りこみをするのにぴったりの世界がないものだ。
それでも走り続けていれば、最初は十五分でへばっていた体も段々息切れをしなくなり、楽に走れるようになる。少しずつ走れる距離が伸びてきたときは嬉しかった。そこまでに半年近くかかったけれど。
筋トレも、最初は満足に腹筋も出来なかったけれど、今ではレオにも「いいフォームだ」と褒めてもらえるくらいにはまともな腹筋が出来ている。出来る回数も増えた。
「はぁー……、はぁ……。レオ、どうかな、私も結構男っぽくなれたかな?」
追加の腹筋を終えて、庭園の地面に寝転んだまま彼に尋ねる。
レオは私を見下ろしたまま、首を傾げた。
「以前よりは筋肉がついたと思うぜ。だけどまだまだだ。服の上からも筋肉がわかる、みたいなレベルにはなかなか到達しないだろうな」
「ちなみに上級者向けの筋トレってどういうものなの?」
「加重する。岩とか小麦の袋とか持ち上げたりすんだよ」
「うわぁ……。ちなみにレオは出来るの、それ?」
「余裕」
「すごいね」
岩とか腰掛けたことしかない。
やっぱりレオは格好いいね。
「つーかさぁ、男に見られたいならまず、その女装をやめて髪を切ればいいんじゃねぇか? それでも女顔だけど、優男くらいにはなれるだろ?」
「私もそうしたいのだけど……」
男である私がなぜ、女性として生きなければならないのか。私はそんなことさえ知らされずに、今日まで女として生かされてきた。
たぶんそうしなければいけない理由があるんだろう。
私の生まれが面倒くさいことは知っている。以前会ったグレイソンとかいうやつが私の異母弟だと聞いたから、つまるところ父親はこの皇国の皇帝なのだろう。
私が皇族として持っていかれてしまうと、大神殿に神託の能力者が居なくなってしまう。だから隠そうとしているのだろう。そこまでは予想がつく。
けれど私は、本当の性別で生活したい。
顔も姿も名前も隠さず、私自身で生きていきたい。
ペトラに異性として認識されたい。
いつかペトラが異性の手を取るときが来たら、彼女の選択肢のなかに、私も居たい。
それがどうしようもない、私の本当だ。
いい加減、マシュリナや上層部と向き合わなきゃならないのだろう。
「あ、やべぇ。もう騎士団に戻らねーと、休憩が終わっちまう」
「今日もありがとうございました、レオ隊長」
「おう、お疲れ、ベリー隊員」
レオと一緒に庭園の奥から移動していると、別の小路と交差する辺りで、ペトラと出会った。
「ペトラ、これから治癒棟へ行く途中?」
「オジョーサマ! こんちは!」
彼女は「あ……」と呟いて私とレオを交互に見つめ、そしてなぜか恥ずかしそうに頬を染める。
そしてそっと私にハンカチを差し出した。
「……ベリー、汗をかいていますわ。あと、すこしワンピースが汚れていますよ」
「あ、本当だ。ありがとう、ペトラ」
指摘された箇所を見れば、土汚れが付いていたので適当に払い、ありがたくハンカチで汗を拭う。
ペトラは視線をさ迷わせ、
「でっ、ではっ、わたくしは急いでいるのでここで失礼しますわ……!!」
と言って、珍しく走って行ってしまった。
「オジョーサマが走るなんて、よっぽど重症患者が来たみてーだな」
「そうかもね。もう春だし、治癒棟も忙しいんだね」
私とレオは納得し、そこで別れた。
▽
「マシュリナ」
明日の服を用意しているマシュリナの背中に声をかける。
マシュリナはすぐに振り向いて、「はい。いかがされましたか、ベリー様?」と用件を尋ねた。
「見習い聖女の服じゃなくて、見習い神官の服が着たい」
今日まで躊躇い続けた言葉が、すんなりと口から出る。
それを聞いたマシュリナの表情が固まるのを、私はしっかりと眺めた。
たっぷり五分ほど待って、マシュリナがようやく口を開けた。
「……なぜ、そのようなことをおっしゃるのです? 今までずっと、ベリー様は大人しく女の子の格好をしてくださっていたじゃないですか。ペトラ様のせいですか? ペトラ様のせいなのでしょう!!」
「マシュリナ、私は男なんだ。心も体も男なんだよ。いつまでも女性の振りをしていくことは出来ない。あと数ヵ月もすれば私は十七歳だ。来年には十八で成人する。もう女性として生きるのは無理な時期まで来てしまったんだ。
本当はマシュリナだってわかっているでしょう? わかっているから、そんなふうに声を荒げるんだ」
「まだ大丈夫ですわ!! もっとお化粧をして、服ももっと改良いたしましょうっ。そうだわ、胸元に詰め物を入れたら、まだベリー様も女の子に……」
「もうそんなことはしたくないと、私は言っているんだよ!」
息を吸い、腹の底から声を出す。
「もう無理なんだ! 私の体はこれからも大人の男へと成長を続けるし、私の心は自分の性を自認した。……私は男なんだ。ペトラと生きていきたい。一人の男として彼女に認められたい。私はペトラの男なんだ」
ハッキリと宣言すれば、マシュリナは絶望した表情で私を見上げる。
「マシュリナ。私は知りたい。なぜ私が女性として暮らさなければならないのかを」
そう問いかければ、マシュリナは観念したかのように肩の力を抜いた。
絶望と諦めを飲み込んだマシュリナから、先ほどまでの取り乱した様子は消えて、威厳ある乳母の表情が現れる。
「ベリー様はご自分の父親がどなたなのか、もうすでに分かっていらっしゃいますね?」
「アスラダ皇国の皇帝陛下。……違う?」
「正解です。キャルヴィン皇帝陛下がベリー様の御父君です」
マシュリナはそれまで秘めていたことを、本当はすべて打ち明けてしまいたかったかのように、話し始めた。
「キャルヴィン皇帝陛下とウェルザ様は、皇都のトルヴェヌ神殿で行われた式典で出会いました。それ以来二人は逢瀬を重ね、お互いの愛情を確認し、結婚すると口約束までしたのです。
けれどキャルヴィン皇帝陛下とウェルザ様の婚約は遅々として進みませんでした」
「それはなぜ?」
「妨害があったのです。
現皇后陛下であるセシリア様は、幼少期からキャルヴィン皇帝陛下の后になると目されていた令嬢でした。公爵家のなかでもとりわけ家格が高い家のご出身で、教養があり、一際美しい方で、なによりキャルヴィン皇帝陛下を心から愛していらっしゃった。噂で聞いた話では、初めてお会いした七つの頃からお慕い申し上げていたそうです。
誰もがセシリア公爵令嬢が婚約者になるだろうと思っていたその矢先に、キャルヴィン皇帝陛下にウェルザ様という恋人が現れたのです。セシリア公爵令嬢は嫉妬に怒り狂い、ウェルザ様に繰り返し危害を加えました」
私は首を傾げた。
「神託の能力者に危害を加えたら、アスラーがしゃしゃり出てくるはずじゃなかった?」
「私も歴史書にそのように書かれているのを読みました。ですが、アスラー大神様は一度もウェルザ様をお助けにはなられませんでした……!」
拳を握りしめて激情を抑えているマシュリナを見ていると、ふと思い出すことがあった。
そういえば前に『俺様はあんな女なんかマジで死ねって思ってるけど、俺様が手出しをするのはウェルザが嫌がるもんな』って、言っていたような……?
「セシリア公爵令嬢から危害を加えられ続けたウェルザ様は、ついにキャルヴィン皇帝陛下との結婚を諦めました。
しかしその時にはすでに、ウェルザ様のお腹の中にはベリー様がいらっしゃったのです」
「私が……」
「ウェルザ様はキャルヴィン皇帝陛下と別れ、大神殿でひっそりとベリー様を生む決意をいたしました。けれど、セシリア様から傷付けられた心が癒えなかったのでしょう。どんどん体が弱り、ベリー様を出産される際に命を落としました。
わざわざあのとき、一時的に枷を外して、治癒棟所長のゼラ神官まで呼び立てたのに……!! それでもウェルザ様の命は救えませんでした……!!」
マシュリナが両手を伸ばし、私の肩をがっしりと掴まえる。そして私の目を覗き込んで言った。
「ベリー様は、皇位継承権をお持ちです」
「皇位、継承権……」
「アスラダ皇国には、直系男児の生まれた順に継承権が与えられます。ペトラ様は女児だったためにハクスリー公爵家を継ぐことが出来ず、傍系の義兄が跡取りとなっているでしょう?」
「……つまり私が女性であれば、皇位継承権に関わらずに済むということだね」
「ええ、そうです、ベリー様」
「なら、皇位継承権を返上しよう。そうすれば私は男として生きられる」
「ベリー様が男として表舞台に立てば、セシリア皇后陛下に命を狙われてしまいます。あの方はキャルヴィン皇帝陛下とウェルザ様の間に御子がいると知れば、怒り狂うに決まっていますから。
キャルヴィン皇帝陛下はもしかしたら話し合えばわかってくださるかもしれませんが、それでもベリー様を皇子として取り上げてしまう可能性は消えません。陛下の御子は現在グレイソン皇太子殿下ただお一人なのです。予備としてベリー様を望まれるかもしれません……」
「……なら、まったく別人として生きていくのはどうだろう? 皇帝陛下の子であることさえ、バレなければ」
「ベリー様のお顔はウェルザ様にそっくりで、髪も瞳もキャルヴィン皇帝陛下と同じ色です。お二人が恋人同士であったことを知る者なら、すぐにわかってしまうでしょう」
この事実を、マシュリナや上層部たちがずっと私に隠していたのか。
男として生きようとすれば皇位継承権が発生し、母を害したセシリアという后に命を狙われる。
皇位継承権を返上するために父に会おうとしても、父の息子が一人しかいない為に皇子に望まれるかもしれない。
ただ大神殿で、男の姿で、ペトラと共に生きていきたいだけなのに。
「お願いです、ベリー様。ただ生き延びることをお考えください。……姿形など、どうでもいいではありませんか」
私の両肩から手を離し、マシュリナが小さくそう呟いた。
命さえ助かるのなら、本当の性別などどうでもいいじゃないか、と。
マシュリナの言葉に、私はなにも答えることが出来なかった。




