表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/121

8:ハクスリー兄妹の始まり



「はぁ……」


 目の前の執務机に座るお父様が、低いため息を吐きました。

 その様子をわたくしは執務机の前に立ったまま、黙って聞いています。


 わたくしもシャルロッテも、ハクスリー公爵家直系に出やすいラベンダー色の髪と銀の瞳をしていますが、お父様のそれはひどく寒々しい色に見えます。

 触れたらこちらの指が凍ってしまいそう。

 シャルロッテやお義母様の前で見せている温かな表情は、わたくしの前では生まれないことを改めて実感しました。


 お父様は眉間に皺を寄せたまま、重い口を開けます。


「……ペトラ、神殿から手紙が来た。お前を見習い聖女として大神殿に迎えたいという内容だ。来週にも面談のために使者が来る。心構えをしておくように」

「わかりましたわ、お父様」


 計画通り物事が進んでいる喜びを隠し、わたくしは出来るだけ平静に見えるように頷いて見せます。


 お父様はそんなわたくしを見て、再びため息を吐きました。


「皇室との関係強化のために、お前を皇太子の婚約者に捩じ込もうとしてきたのだがな……、すべてが水の泡だ。これではシャルロッテを皇室に嫁入りさせねばならんが……、公爵令嬢として今から仕上がるかどうかわからん」


 乙女ゲーム『きみとハーデンベルギアの恋を』の皇太子ルートのハッピーエンドでは、二人はちゃんと結婚していたので、お父様の心配は杞憂でしょう。シャルロッテは立派な皇太子妃になれます。


 まぁ、そんなことはお父様にはまだ分からないでしょうけど。


「せめて神殿でのツテとなるように、励みなさい」

「はい。お父様」


 わたくしが神殿へ行っても、お父様の中では手駒の一つのままなのでしょう。見習いの間は貴族籍はそのままですから。

 軽んじられていると感じて腹立たしいし、悲しいですが、とにかく神殿に行けばお父様から離れられるのです。

 公爵家のツテ作りなど忘れてしまいましょう。


「話は以上だ。下がりなさい」

「では失礼致します」


 スッと頭を下げ、執事が開けてくれた扉から廊下へ出ると、わたくしは深く呼吸しました。

 お父様と一緒にいると、空気が薄くて息苦しいのです。


「ペトラ」


 廊下の奥に、ちょうど階段を上ってきたらしい従兄の姿が見えました。


 彼はわたくしに向かって片手を上げています。


「アーヴィンお従兄様、ごきげんよう」


 直系の男児がいないハクスリー公爵家の跡取りとして、分家から引き抜かれたアーヴィンお従兄様は、わたくしより五つ年上の十三歳。淡い水色と銀の瞳を持つ、優しげな美少年です。ゲームの攻略対象者の一人なので、背景がキラキラと輝いている錯覚を感じました。

 十五歳になるまでに公爵家の跡取りとしてふさわしい人間になれれば我が家の養子にする、とお父様が言っているので、アーヴィンお従兄様はまだ完全にはこの家の人間ではありません。ですがゲーム内ではちゃんと養子になっていたので、きっとそのうち義兄になるのでしょう。

 その頃にはわたくしは神殿に居る予定ですけど。


 アーヴィンお従兄様はわたくしの元までやって来ると、気遣わしげな視線を向けてきます。


「公爵閣下から、神殿入りの話を聞かされたのかい?」

「ええ。来週に神官様と面談があるとお聞きしました」

「そうか……」


 アーヴィンお従兄様は、わたくしの頭を優しく撫でました。


「令嬢生活から離れて神殿に入るのは辛いだろう……。ペトラが納得していないのなら、僕が神官様に掛け合ってみようか?」


 わたくしはそのとき初めて気が付きました。普通のご令嬢は神殿入りなど御免被るのだということを。


 前世でのんびり暮らした記憶が蘇ったものですから、忘れていました。豪邸で豪遊できる暮らしをしていた令嬢が、突然、質素極まる神殿生活など受け入れられるはずがないのです。

 だからこそゲームのペトラは罰として神殿に送られたのですから。


 アーヴィンお従兄様は心からわたくしに同情してくださっていたのです。

 ……この配慮をまったく見せなかったお父様へのモヤモヤがちらりと浮かびましたが、速攻で心に蓋をしました。


「ご心配痛み入りますわ、アーヴィンお従兄様。ですが神殿入りはわたくしも納得の上ですの」

「そうなのかい、ペトラ? ここで公爵令嬢として暮らしていれば、きみの毎日はきっと素晴らしいものになるだろうに。下々の者にかしづかれ、どんな贅沢も許され、社交界に出れば注目の的となる。……皇太子妃の座すら手に入るだろう。そんなペトラが、なぜ……」

「……ここはお母様との思い出が多すぎますから」


 お父様の幸せな家庭を見たくない、ということは口に出せません。

 前世の乙女ゲームについても同様です。


 だから話せる範囲で、真実のひとつを口にしました。


「それなら領地へ……いや、それでは公爵邸と同じことか……」


 領地へ戻ることを勧めようとしてくれた従兄ですが、領地の屋敷にも、ハクスリー公爵家所有のどこの別荘にも、お母様と過ごした記憶があります。


 新天地でなければわたくしの心の平穏はあり得ないのだと、アーヴィンお従兄様はようやく理解してくださいました。


「わかったよ、ペトラ。神殿での生活は困難が多いと思うけれど、どうか元気で過ごしてほしい。未来の義兄として、僕はきみの応援をするよ」

「ありがとうございます、アーヴィンお従兄様」


 アーヴィンお従兄様はそのままお父様の執務室へと入っていきました。


 神殿はここよりも空気の良い場所だといいなと、わたくしはそっと思いました。





 神殿からやって来た神官様たちとの面談は、一日では終わらず、日を置いて何度も行われました。


 わたくしの治癒能力がどれほどのものであるか調べるための試験のようなものありましたし、聖女としての暮らしについて何度も説明を受け、近くにある神殿へ見学にも出掛けました。

 少し、前世での学校入学の流れを思い出します。


 ハクスリー公爵家側もわたくしを神殿に出すためにいろいろと準備をしなければなりませんでしたが、アーヴィンお従兄様が書類提出や引っ越しの荷物の手配などをしてくださったので、スムーズに進みました。たいへん助かりました。


 ちょうど季節が冬に差し掛かったので、神殿に入るのは冬が明けて街道に雪がなくなる頃、ということになりました。

 わたくしが引っ越す神殿は皇都内にあるいくつかの神殿ではなく、海沿いにある聖地ラズーの大神殿だったので、雪の間に向かうのは無理だと判断されたのです。





 そして月日はバタバタと進み、ついに明日、わたくしはハクスリー公爵家から大神殿へと引っ越すことになりました。

 冬のあいだに誕生日を迎えたので、わたくしは九歳になっておりました。


「ペトラお嬢様ぁぁ、お側にお仕え出来なくなって寂しいですぅ~。でもめちゃくちゃファンなので、ペトラお嬢様のご活躍を楽しみにしてますからねっ!」

「ありがとうございます、リコリス。どうかそんなに泣かないで」

「なにかあったらこのハンスに連絡を寄越してくださいよ、ペトラお嬢様。すぐにラズーまで駆けつけて、敵をやっつけてやりますから」

「きっとお手紙を書きますわ、ハンス。でも、敵って誰ですの……?」


 ハクスリー公爵邸での最後の一日を、わたくしは使用人たちへの挨拶回りに使いました。

 リコリスやハンスには特にお世話になりましたが、それ以外の使用人たちにも長年のよく仕えてもらったので、感謝とお別れを伝えたかったのです。


 お母様のお墓参りは先週すませましたし、貧民街のみなさんには、昨日までにお別れの挨拶をしました。


 マリリンさんやお孫さんのケントくんとナナリーちゃんが、わたくしのために大根のスープをご馳走してくれたのには、とても驚きました。

 雪解け水と塩でシンプルに味付けにされた大根のスープには、大根の葉っぱが細かく散らされていました。

 贅沢に慣れた舌を持っているわたくしですが、彼らの精一杯のもてなしが嬉しくて嬉しくて、心がとても温まりました。


『お嬢さんにはいろいろ世話になったからねぇ。貧乏人でも感謝する気持ちくらいは持ち合わせてるんだよ』とマリリンさんは顔を背けながらも仰ってくださいました。

 何度思い返しても笑顔になれる、とても幸せなお別れ会でした。


 ただ、いつものガキ大将に会えなかったのは残念でしたけれど。

 彼の治癒をしたお陰で神殿入りが決まったと言っても、過言ではないので。


「お体には気を付けてくださいね、ペトラお嬢様」

「あんまり無茶なことはしないでくださいよ」


 リコリスとハンスの忠告に頷いていると。

 後ろから「ペトラお姉様……!」と声が聞こえました。


 ーーーシャルロッテです。


「ペトラお姉様、あの、今、お時間大丈夫でしょうか……?」

「……シャルロッテ」


 相変わらず庇護欲を掻き立てる小動物のような異母妹のシャルロッテですが、公爵令嬢としての振る舞い方に慣れてきたようです。

 姿勢や歩き方、話し方が、以前よりずっと良くなっていることに気が付きました。


「あまり多くは時間が取れませんけれど……。どうしたのです?」


 シャルロッテやお父様たちとは、一応お別れ会的なものとして、今夜豪勢なディナーをする予定です。

 まさか以前のようにお茶に誘われたら嫌だなぁと、わたくしはつい身構えてしまいました。


「すぐに済みますっ。あの、これ、ペトラお姉様に渡したくて作ったんです。受け取ってください!」

「これは……」

「リボンです。まだ刺繍は習ったばかりで、上手にできなかったんですけど……、でも、初めて私が一人で完成させられたものなので、ペトラお姉様に差し上げたかったんです!」


 紫色のハーデンベルギアの花の刺繍が、三十センチほどの白い絹のリボンに丁寧に縫い付けられていました。とても美しい品です。

 さすがは乙女ゲームのヒロイン。わたくしと一歳差で、刺繍も習ったばかりだと本人も言っているのに、ほぼ完璧な仕上がりでした。


「ペトラお姉様が私のお姉様になってくださって、とても嬉しかったのに、私が令嬢としての勉強でいっぱいいっぱいで、時間が作れなくて、ちっともペトラお姉様と一緒に居られませんでした……。もっとペトラお姉様と仲良くなりたかったです……」

「シャルロッテ……」


 シャルロッテの大きな銀色の瞳から、じわじわと涙が浮かび、ついに溢れ落ちました。


 わたくしは悔しそうに泣く彼女を見て、ただ愕然としていました。


「ラズーの大神殿に、行ってしまわれても、ペトラお姉様とずっと姉妹でいられますようにって、私、わたしぃ……!」


 わたくしは慌ててシャルロッテを抱き締めました。


 そうして腕の中で感じる彼女の、なんという小さな体。

 まだ七歳の、か弱い少女です。


 ガツンと頭を殴られたような衝撃です。

 ハッキリと目が覚めました。

 ……自己嫌悪で倒れてしまいそうです。


 新しい家族と仲良くすることでお父様を喜ばせたくないからとか、乙女ゲームのヒロインだからとか、悪役令嬢だからとか。

 そんな理由で小さな異母妹を避け続けた自分自身の性根が最悪すぎて、もう消えてしまいたいです。


 だって悪いのはお父様とお義母様で、生まれてきたシャルロッテは、何一つ悪くなかったのに。

 ヒロインである運命も、彼女の意思とは関わりのないことなのです。


 わたくしはシャルロッテの頭を何度も撫でました。

 明日神殿に引っ越してしまう酷い異母姉ですが、せめて少しでも姉妹としての思い出を彼女に残せるように、何度も何度も撫でました。

 ラベンダー色の細く柔らかい髪が、指のあいだをサラサラと通り過ぎます。

 触れる地肌は、子供体温のせいなのか、シャルロッテが泣いているせいなのか、汗ばんで熱を持っていました。


「ありがとうございます、シャルロッテ。リボン、大切にしますわね。神殿に行ったら、必ずあなたに手紙を書きますから。わたくしたちは、ちゃんとずっと、姉妹ですわ」

「ペ、ペトラお姉様ぁぁ……!」


 わたくしはシャルロッテが泣き止むまで彼女を抱き締めていました。


 ふと気が付けば、リコリスとハンスが微笑ましいものを見る眼差しでわたくしたちを見つめています。

 廊下の奥には、アーヴィンお従兄様までこっそり隠れていました。

 もしかしなくてもシャルロッテをけしかけたのは、アーヴィンお従兄様なのでしょう。

 アーヴィンお従兄様はわたくしにも優しい眼差しを向けていました。

 シャルロッテはともかく、わたくしにはそんな優しい眼差しを向けてもらえる資格などありませんのに。





 泣き疲れてぐったりとするシャルロッテを、ハンスが彼女の部屋まで運んで行くことになりました。


 アーヴィンお従兄様がこちらに近付いてきて、優しく言います。


「ペトラ、きみはお母様の思い出があって辛いからと言ったけれど、きみにはきみのお母様以外に、僕とシャルロッテも家族だからね。神殿に行ってもそれは変わらない。どうかそれを忘れないでいて」

「アーヴィンお従兄様……」


 アーヴィンお従兄様は、わたくしがお父様に抱えるモヤモヤとした気持ちに気付いていたのでしょう。

 不貞の罪があるお父様とお義母様とは家族になれなくても、子供たち三人だけは家族だとおっしゃってくれたのです。


「……わたくし、冷たい姉でしたわ。シャルロッテをあんなに泣かせてしまいました」

「大丈夫。挽回できるよ。ペトラが大神殿へ行っても、きみたちは姉妹なんだから。それに僕もいずれきみたちの義兄になる」

「頼りにしておりますわ、アーヴィンお義兄様」


 シャルロッテに今からでも優しく出来るでしょうか、わかりません……。

 でも、優しくしたいと、そう願います。


 わたくしはハーデンベルギアの刺繍が入ったリボンを、きゅっと抱き締めました。


 ゲームとは関係ないペトラとシャルロッテとして、これからちゃんと向き合えたらいいなと、わたくしは思いました。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ